日本基督教団補教師試験の問題に、ヒゼキヤ王とヨシヤ王の宗教改革を比較して述べよ、というものがありました。歴代誌下で言えば、ヒゼキヤについては29〜31章、ヨシヤについては34〜35章に記されています。尤も、列王記下にも両者は出てきますので、それらの記述も加味しないとならないでしょうが、一つの大きな違いは、ヨシヤ王の改革の方が各方面において徹底的であったという点です。彼は偶像撤去において徹底していました。偶像を破壊しただけでなく、「粉々に打ち砕」いてその粉を偶像礼拝者たちの墓に降りかけました。また偶像礼拝を司った祭司たちの骨までも焼いて、その痕跡すら失くしてしまいました(3∼7節)。偶像の破壊において徹底していただけではありません。彼は、神殿再建のための費用を惜しむこともしませんでした。そのために、北イスラエルにも働きかけるほどでした。それほど、徹底して本来の神殿礼拝の回復を図ったのです(8∼13節)。
しかし、それだけなら、ヒゼキヤと大きくは違っていません。ヨシヤの宗教改革の最大の特徴は、神殿を修復しているときに発見した「律法の書」(現在の申命記の一部)に基づくものであったことです(14節以下)。冒頭に上げた聖句の通りです。ヨシヤ王は、徹底して主なる神の言葉に聞いて、主を礼拝したのです。それに基づいて改革をなしたのです。ルターやカルヴァンの宗教改革の根幹も同じでした。御言葉に立ち返って、そこに沈潜して聞き、御言葉によって造り変えられることを願ったのです。言葉を変えれば、人の言葉に聞き従い、人の喜ぶことを求めるのを止めたのです。主キリストこそが喜び給うことを願い、「「今日」という日のうちに」(ヘブライ3:18)御言葉に聞くのです。それが、わたしたちが受け継ぐべき改革の遺産です。
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