同様の言葉が7節にもあります。それらの言葉は、神の御心は変わらないことを告げています。人は変わり、国の体制も変わります。神の民イスラエルも、何度も変節しました。この歴代誌下33章では、55年間も王位にあったマナセについて記されていますが、彼は前の王ヒゼキヤとは違って、「主の目に悪とされることを行った」(2節)のです。折角、ヒゼキヤが取り壊した偶像礼拝のための高台を再建しましたし、神の御言葉に聞くのではなく、占いやまじない、魔術、口寄せ、霊媒などに信頼を置いたのです(2∼7節)。そのようにして、彼は主への信頼、真実を偽りのものに変えてしまいました。主に対する節操を貫かなかったのです。しかし、神には変節はありません。「エルサレムにわたしの名をとこしえにとどめ」続けてくださるのです。
わたしたちは、その神の真実によってこそ救いに与るのです。「神の恵みは「信じると否とに拘わらず」妥当する普遍性をもつ」(宮田光雄『カール・バルト
神の愉快なパルチザン』p.141、岩波書店)とあるとおり、救いはわたしたちの信仰の如何に拘わらず、神の普遍的で真実な恵みによって与えられるのです。だから、何をしても良いのではありません。その恵みに応えて、悔い改めて御言葉に聞き、真の主への礼拝を回復していくのです。
マナセは自分に下された裁きを契機に、「神の御前に深くへりくだり、祈り求め」(12∼13節)る者となり、それによって御前に生きる者とされました。そのことが可能になったのも、主なる神が御心を変えなかったからです。彼の悔い改めが、御心を動かしたのではありません。変わることのない神の恵みの真実が、マナセの心を動かし悔い改めをもたらしたのです。そのことを覚えて主をたたえるのです。「今もそしてとこしえに」(詩編115:18)、そうするのです。
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