今、礼拝でルカによる福音書を読んでいますが、悪霊に憑かれた男がイエス様に向かって「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」と、ひれ伏しながら叫んだと記されていました(8:28)。主イエス様の御前でひれ伏して「いと高き神の子イエス」と語り掛けるのですから、立派な信仰告白であると思うかもしれません。しかし、言葉は正しいかもしれませんが、まっとうな信仰告白ではありません。続けて語られている「かわまいなでくれ」という言葉が、「俺とおまえは何の関係もないだろう」という意味であることを考えてみても分かります。イエス様に向かって、言葉の上では正しいことを口にしたとしても、その関係が正しくなければ、祝せられることにはならないのです。
ヒゼキヤ王は宗教改革を行ったのですが、上記のように「彼はエルサレムに住む民に、祭司とレビ人の受けるべき分を提供するように命じた」のです。それは「祭司とレビ人が主の律法のことに専念するため」(4節)でした。宗教改革をして主なる神への信仰を新たにするというのは、単に言葉を整えるということではなく、主を主として礼拝するために必要なものを献げる生活を始める(ここでは、専ら礼拝に仕える祭司やレビ人を支えるために献げる)のです。とは言っても、沢山献げることが勧められているのではありません。主は、「レプトン銅貨二枚を」献げた貧しいやもめを祝されたのです(ルカ21:1∼4)。イエス様は、自分ではなく主キリストをこそ主とすることを、求め給うのです。神と、父とその子らという関係を、御子の十字架によって罪贖われて与えられているのですから、その関係を保ち得るよう祈り礼拝して、自分を主に献げていくのです。それが、わたしたち自身の絶えざる宗教改革になるのです。
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