「祭司ヨヤダの生きている間は」ということは、ヨヤダが死んでからは、主の目にかなわない歩みになったということでしょう。実際、ヨアシュはヨヤダとともに神殿の修復に取り組みます。以前の王たちは偶像礼拝にうつつを抜かしていたので、神殿は荒れ果てていたのです。その修復の資金調達をレビ人たちに依頼しますが、彼らはなかなか動こうとはしません。それで、自由献金箱を用意したら、沢山の献げ物があったのです。それによって、神殿修復を成し遂げることができ、主を礼拝することも正しく為すことができたのです。それは、主の目に適うことでした。
やがてヨヤダが死にます。ヨアシュ王はユダの高官たちに
唆
され、偶像礼拝に陥ります。それを責め、悔い改めを促したヨヤダの息子・ゼカルヤを、彼は神殿で殺します。その報いでしょう。彼はアラム軍との戦いで深手を負い、治療のために寝ている時に、家臣に殺されてしまいます。無様な最後でした。
イエス様は、わたしたちもゼカルヤを殺したヨアシュの血筋を引くものであると示唆しています(マタイ23:35参照)。わたしたちも、些細な事をきっかけに、同じような罪を犯しかねないのです。どれほどの聖人でも、日々が悔い改めである必要があるほど、罪と無縁ではないのです。そうであればこそ、何があっても、わたしたちの罪の贖いのために十字架にお掛かりになった主の御言葉に聞くのです。「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えて行こう」(ヘブライ12:28)。
罪を重ねるわたしたちでも、主の恵みによって揺り動かされることのない御国に入るを得ているのですから、主の御言葉に聞き続けていくのです。
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