「きのうの信仰は、今日の力にはならない」と言った人がいます。「きのうの信仰」とは「かつての信仰」と言い換えても良いでしょう。それがどれほどのものであったとしても、それによって、御前での今日の自分が保証される訳ではないのです。言い方を変えれば、主への信仰は貯蓄することはできないということです。若い頃、熱心に教会に通い、奉仕もした。そのことがモノを言って、今は教会生活をしていなくても、主なる神に受け入れていただけるということにはならないのです。出エジプトの後、荒野を旅したイスラエルにマナが与えられましたが、それはその日の分を与えられるだけでした。翌日の分を蓄えたとしても、腐敗して食べることができなかったのです。それを考えてみても分かります。大切なことは、主がわたしたちに必要なものを毎日与えて養い育て、支えてくださっていることを信じて、一日一日、日々新たに主イエス・キリストへの信仰に生きることです。
歴代誌下14〜16章はユダの王アサに関する記述です。そこで「主を求める」(14:3,6,10。15:2,12,15。16:12)ことが繰り返し勧められているように、日々新たに主を求めることが肝要なのです。アサは、歴代誌下14〜15章では、「主の目にかなう正しく良いことを行った」(14:1)ということで称賛されています。実際、主なる神は彼を全面的に支持し守ってくださいましたし、それに応えて、彼も偶像礼拝をことごとく排除しました。しかし、16章を見ると、彼は主なる神ではなくアラムの王ベン・ハダドに頼ったのです(7節参照)。主を求めず、むしろ主を捨てたのです。結果、重い病に倒れ滅びます。
かつてどれほど信仰深くあっても、今、主を求めるのかどうかによって、自分の命運も決まるのです。「きのうの信仰は、今日の力にはならない」のですから、「今日こそ、主の声に聞き従う」(詩編95:7)のであります。
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