神殿礼拝のための体制作りに際して、様々なことが「くじ」によって決められたことが強調されています(25:8〜31参照。他多数箇所)。くじによったということは、神の御心を中心とした体制作りがなされたということです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神…です」(Tコリント14:33)という言葉のとおり、神は無秩序であることを厭い、平和を望み給うのです。その平和とは、単に争いごとがないということではありません。上記聖句では「平和」の対義語として「無秩序」が使われています。平和を望むということは、秩序を望むということでもあります。神は、ご自身こそが主となり、神として崇められるという秩序を重んじ、それを喜び給うのです。
わたしたち教会で言えば、キリストを
頭
とし、主とする秩序です。その秩序を保つために必要な一つの事は、訓練です。25章には詠唱者のことが記され、今週の聖句に挙げた言葉のとおり、熟練した者であっても主に向かって歌をうたうための訓練を受けたのです。それはどういうことを意味しているかと言えば、その訓練は、自分の技能を高めるためだけのものではなかったということでしょう。それは、主をこそ主とするための訓練です。御前で謙遜であるための訓練と言っても良いでしょう。そうであれば、むしろ熟練した者たちこそ、その訓練が必要でしょう。熟練した者はそれなりの技能を持ち、様々なテクニックも身に着けているでしょう。そしてそうであれば、知らず知らずのうちに、その自分の技能に頼ったり、それを自負しようとしかねないのです。だからこそ、彼らも御前での
遜
りを身に着ける訓練が、必要なのです。
自分が喜ぶに至ることを願い求めるのではありません。主が喜び給うことを願うのです。そのような秩序を作るために、皆が主に仕えていくのです。
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