列王記下16章に記されているアハズ王とその民について、預言者イザヤは「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように、動揺した」(イザヤ7:2)と言いました。アラム王レツィンとイスラエルの王ペカが結託して、南ユダを攻めてきた(シリア・エフライム戦争の)ときです。アハズ王は激しく動揺し、当時勢力を拡大していたアッシリアに貢物を渡し援軍依頼をしましたが、それは「主の目にかなう正しいこと」(列王記下16:3)ではありませんでした。
前述の預言者イザヤは、アハズ王に、攻めてきている二つの国は「燃え残ってくすぶっている切り株」のようなものだから恐るるに足りない、「落ち着いて、静かにしていなさい」と勧めます(イザヤ7:4)。それこそが、主の目にかなう正しいことだったのです。しかし、彼は恐れて、上述のようにアッシリアに援軍を頼みます。それだけではなく、アッシリアの王ティグラト・ピレセルのために、ダマスコにあるのと同じ祭壇を築きます。それは、新たな偶像礼拝の導入であり、罪に罪を重ねることになったのです。
イザヤは、アハズに、神が確かに守り給うことのしるしとしてインマヌエル預言を語ります。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉です(イザヤ7:14)。インマヌエルと呼ばれているのが直接的に誰かについては諸説ありますが、わたしたちにとっては、言うまでもなく主イエス・キリストです。神は、わたしたちの心が森の木々のように激しく揺れ動くようなことがあっても、ご自身が共にいましてくださる(インマヌエル)ことを示すために、御子をお遣わしくださったのです。その御子による贖いと救いの故に落ち着いて、静かにして、すべてをその御子に委ねて歩むのです。それが、主の目にかなう正しいことなのです。
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