母親たちが自分たちの子供を食べてしまうという悲惨が起こるほどの、大飢饉でした(列王記下6:24〜33参照)。そんなとき、エリシャは「主の言葉を聞きなさい」と言い、「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉…大麦」(7:1)が整えられると預言します。王の侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」とエリシャの言葉、否、主の言葉を信じません。エリシャは侍従に「あなたは自分の目でそれを見る。だが、食べることはできない」(同2)と言い、はたせるかな、その通りになります。7:1〜2の言葉と殆ど同じことが7:18〜19で繰り返されていますが、それは、神の御言葉は成就するということ、また神から出た災いであれば(6:33参照)解決の道も神から来ることを示そうとしてのこと、と言って良いでしょう。だからこそ「主の言葉を聞きなさい」と勧められているのです。
そうです。どのようなときも主の言葉に聞くのです。主イエスの父なる神を信じたから、何もかも自分の都合の良いようになる訳ではないでしょう。逆に、イエス様が「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と勧められたように、主に従う故の苦難を負うことになるかもしれないのです。しかし、主の恵みの支えの御手は変わらないのです。
わたしたちを取り巻く状況は変わります。実際、誰が、二年前、今日のコロナ禍を予想していたでしょうか。取り巻く状況だけではなく、わたしたち自身も激しく変わります。しかし、御心は変わりません。主は変わることなく、わたしたちを恵みの御手の内に置き続けてくださいます。「わが行くみち/いついかに/なるべきかは/つゆ知らねど/主はみこころ/なしたまわん/そなえたもう/主のみちを/ふみてゆかん/ひとすじに」(讃美歌494)とあるように、備え給う主を信じて、御言葉を聞きつつ、歩んでいくのです。
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