北イスラエルの王ヨラムは、南ユダの王ヨシャパテに声をかけ、更にエドムの王も加えて、モアブを攻めました。迂回路を通ったため、飲み水がなくなります。ヨシャパテは近くにいるエリシャに助けを乞うたところ、エリシャは、涸れ谷に水を満たすという主の御心を告げます。その言葉に続けて、エリシャは「これは主の目には小さいことである」と語るのです。上記の通りです。
涸れ谷に水が与えられるということは、奇跡であって、実に大きなこと、大喜びするべきことであるに違いありません。ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な人を、イエス・キリストの名によって歩くことができるようにしたとき、「民衆は皆非常に驚いて…彼らの方へ、一斉に集まってきた」(使徒言行録3:11)とありますが、涸れ谷に水が満ちるということもまた、皆が集まって狂喜乱舞するに値するほど、大いなることのように思えます。
しかし、それは「主の目には小さいことである」のです。わたしたちが目を見張るべき大きなこととは、目に見えるしるしではなく、そのしるしをなさってくださる主であり主の御言葉です。その御言葉に聞くことこそが願われるのです。困ったときにだけ、預言者エリシャを頼ってくるのではない…勿論、別な神々の所に行くよりは、エリシャを頼りにする方が遥かに良いでしょうが…それ以上に大切なことは、常に主の御言葉に聞くことです。
主イエスは「ヨナのしるしのほかに、しるしは与えられない」と語ったのに続けて、そのヨナの説教を聞いてニネベの人々は悔い改めた、そして「ここにヨナにまさるものがある」と仰せになりました。ヨナにまさるお方である主キリストの御言葉に聞くことこそが大いなることであり、その事をこそ、主はお喜びになられるのです。(マタイ12:38〜42参照)。
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