アラム王ベン・ハダド率いる大軍がイスラエルのサマリアを完全に包囲した時、イスラエルの王アハブは無条件降伏を申し出た。到底勝ち目はないと思ったのであろう。そのことを長老たちに話したところ、長老と民は、上記聖句のように言って反対した。神の民であるべきものは、ましてその民の王は、人の求めではなく、主なる神の求めにこそ聞くべきであるということであろう。教会はそのことをいつも忘れてはならない。牧師が御言葉ではなく他の者の言葉に聞き、それに従おうとしたら、ここの長老や民のように、そのことを何としても阻止すべきことを、忘れてはならない。
実際、その長老たちの意見に従い、アラム軍に降伏せず、彼らの隙をついて攻撃して、アハブ王は勝利することができた(12〜21節)。アラム軍は、今回は山が主戦場だったので敗れたが、平野なら自分たちに分があると言って再度戦いに挑むが、主は山だけでなく全て治め給う主である故に、アハブはそこでの戦いにも勝利することができた(22〜34節)。神の人(多分エリヤ)が、主なる神の言葉として、「わたしこそ主である」(28節)と語っている通りである。
実際、主なる神は、御子を死者の中から復活させて、御子こそがすべての主であり、勝利者であることを明らかにしてくださった。そうであれば教会は、その主イエス・キリストの御言葉こそ、自分たちが聞くべき唯一の言葉としていくのである。ナチス・ドイツが教会を配下に置こうとしたとき、教会はバルメン宣言を出して、「聖書においてわたしたちに証されているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」と語ったが、そのことを教会は忘れてはならないのである。アハブ王がここでは勝利したが、後に滅びることになったその理由は、御言葉への不服従にあったことを忘れてはならないのである。
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