実は、列王記上6:38には「第八の月に神殿はその細部に至るまで計画どおりに完成した」とあるのです。神殿は既に完成しているはずなのです。しかし、ここで改めて「神殿は完成した」というのです。どういうことでしょうか。
改めて25節全体を読むと、こうあります。「ソロモンは、主のために築いた祭壇に年に三度、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、主の前に香をたいた。こうして彼は神殿を完成した。」これらの献げ物がささげられたということは、今で言えば、神を神として礼拝したということです。少し前の4節以下には「無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法とを守るなら…あなたの王座をとこしえに存続させる」とあります。主なる神は、「無垢な心で」もって、すなわち一途に主をこそ主とすることをお喜びになるのです。逆に主に「背を向けて離れ去り…他の神々のもとに行って仕え、それらにひれ伏すなら…わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去」(6∼7節)るのです。正しい礼拝、一筋の心をもって主を畏れ敬うところでこそ、ソロモン自身は勿論のこと、イスラエルの民も建てられた神殿も祝福され、神の宮として完成することになるのです。9:25の言葉はその消息を語っているのです。
主イエスのお言葉です。「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:28∼29)。主がすべてを御手の内に置き、必要なものを備えてくださっているのです。その主を信じるからこそ、わたしたちは思い煩うことなく、その主に委ねて、「無垢な心で」主を崇めていくのです。「わたしの霊を御手に委ねます」と、十字架上で仰せになって亡くなった、主キリストに心を寄せましょう。
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