上記聖句は、神殿を献げるとき、ソロモンが祈った祈りの言葉です。当教会でもそうでしたが、献堂式の時などの時よく読まれる箇所です。わたしたちの教会堂が主なる神を納めることができないのは言うまでもありませんし、負け惜しみで言うのではありませんが、サンピエトロ大聖堂のような絢爛豪華、壮麗優美な教会であったとしても、事情は同じです。神は有限ではなく、無限なるお方ですから、この地上のどこであっても、また自然界や宇宙全体であっても、納めることはできないのです。
そのことは、言葉を換えて言えば、神は固定化できないということでもあります。神は静的な神ではなく、動的なお方です。主なる神はモーセに対して、「わたしはある」というのがわたしの名前だ、と仰せになりました。これも、元はと言えば「生成」という意味合いを持っている字だと言われています。神はどこかに固定することができるお方ではなく、ご自分でご自身をお示しになることによって、その御臨在を示し給う啓示の神であるのです。
ヨハネ1:14には「
言
は肉となって、わたしたちの内に宿られた」という言葉があります。この「言」とは、主イエス・キリストのことです。神は、主イエスにおいてわたしたちと同じ肉体をとって、わたしたちの間にご自身をお示しになってくださったのです。それならば、そのようにして肉となって宿ってくださった神の言葉そのものである主イエス・キリストに聞いて、主を礼拝するのです。それこそが、神殿また教会においてなされるべきことであり、そのように主なる神が喜び給う礼拝を献げることによって、仮にそれが小さな礼拝であっても、神を入れるのにふさわしい教会になるのです。
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