ダビデは人口調査をしました。9節の記述で分かるように、自分たちの戦力を調べ、自分たちの戦力を誇示するためのものでした。しかし、イスラエルの戦いは神の戦いであり、勝利も神がもたらすのです。例えばギデオンの場合、当初32,000人もの兵士がいたのに、神の指示に従って300人にまで絞り込みました(士師記7章)。それは、勝利が人間の力によったではなく、神が賜うものであることを知って、主への信頼を増し加えるためでした。
そもそも、この人口調査は主が誘ったものでした(1節)。主なる神は、ダビデの神信頼を確認しようとしたのだと言っても良いでしょう。ダビデが人口調査の後に「心に呵責」を覚え、上記10節の聖句のように告白したのは、徹底して神を信頼しきっていない自分を見出したからでしょう。わたしたちも、色々な仕方で、神信頼に生きているかどうかを試みられることがあります。試みは、神がわたしたちを見捨てようとしてのことではなく、逆にわたしたちの信仰を鍛えようとなさってのことです。わたしたちをご自身の子らとして認め、愛しているからこそ、鍛錬の時を備えてくださるのです(へブライ12:7∼9参照)。
ダビデは神の裁きを受けますが、その後に主のための祭壇を作ります。祭壇を作るのに、甘えることなく必要な代価をきちんと払うという真摯な思いをもって祭壇を築き、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた」(24節)のです。その祭壇の場所は、後にソロモンが神殿を建てることになった場所でもあります。ダビデは、主なる神を礼拝して生きる者となり、後の者たちも神礼拝に生きるための道備えをしたのです。
わたしたちも「愛する子らをきたえたもう 父の愛こそ限りなけれ」(讃美歌290/3)と、主を礼拝し、賛美し続けるのです。
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