ペリシテ人が襲来し、ダビデがアドラムの洞窟に逃れた時、彼は郷里「ベツレヘムの城門の傍らにある…井戸の水を飲ませてくれるものがあればよいのに」(15節)と切望しました。ベツレヘム周辺は、既にペリシテ人が占拠していました。そこへ行って水を汲んで来るには、命の危険があります。ところが、三人の勇士がその危険をものともせずに、ベツレヘム城門の井戸の水を汲んできたのです。
ダビデの喜びは大きかったでしょう。しかし、ダビデはその水を飲むことはせず、「これは命をかけて行った者たちの血そのものです」(17節)と言って、注いで主にささげたのです。三人の勇士が汲んできた水は、彼らの命がかかっていました。そういう意味も込めて、ダビデはその水を彼らの血であると言ったのでしょう。そしてその背後に、三人の勇士たちに水を運ぶことを良しとしてくださった恵みの主を覚え、その水を主にささげたのです。
その出来事は、わたしたちに、主イエス・キリストの御言葉と御業とを思い起こさせます。わたしたちにも、独り子なる神イエス・キリストが「永遠の命に至る水」(ヨハネ4:14、黙示録21:6)をもたらしてくださっているのです。それは、主ご自身が命をかけてもたらしてくださったものです。主イエス・キリストの十字架にかかって流し給う血潮によって、わたしたちは御前に生きる命の水に与るを得たのです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得て、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は真の食べ物、わたしの血は真の飲み物だからである」(ヨハネ6:54∼55)という主イエスのお言葉の通り(この言葉は聖餐を意味していますが)、わたしたちは感謝をもって聖餐に与り、永遠の命を預かって参りたいのです。
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