あなたを生かす聖書の言葉

2020年11月15日(投稿)

今週の聖句    サムエル記下12

  聖書「その男はあなただ」(サムエル記下127a)。

 預言者ナタンの上記の言葉が、ダビデの胸を鋭く ( えぐ ) ります。ダビデはその言葉を受けて「わたしは主に罪を犯した」(13)と、罪の告白をします。そのように自分の罪を認めて「打ち砕かれ悔いる心を」(詩篇51:19)をもって伏すことが、ダビデだけでなく、わたしたちが主の御前で取り得る唯一の道です。

 ナタンは一つの例話を語りました。多くの羊や牛を持っていた富める者と、一匹の小羊のほか何も持っていなかった貧しい男がいた。彼はその一匹の小羊を娘のように可愛がって育てていた。ある日、富める者の所に一人の旅人がやってきた。富める者は、その旅人をもてなすのに自分の羊や牛を用いるのを惜しみ、貧しい男の小羊を奪い取って調理し、客に振舞った、という例話です。それを聞いたダビデ王は、「そんなことをした男は死罪だ」と激昂します。それに対してナタンが語った言葉が、冒頭の言葉です。

 この例話は、ダビデが、直接手を下しはしませんでしたがウリヤを死に至らせ、その妻バト・シェバを奪った罪を告発するものでした(9節参照)。しかし、ダビデはそのことに気づきません。、だから、「そんな…男は死罪だ」と言ったのです。他人の過ちや罪は直ぐに分かりますが、自分の罪には気づかないのがわたしたちの姿です。その点では皆同じです。そのことから言えば、わたしたちも「その男はあなただ」と指摘されても仕方がないのです。しかし、主なる神は、そのような罪人にも多くの恵みをもって関わってくださっていましたし(7b8節参照)、これからも同様にしてくださるのです。

  主は、わたしたちにも多くの恵みをもって関わってくださっています。「御子をさえ惜しまずに死に渡された方」ですから、わたしたちに必要なものすべてを賜うことは明白です(ローマ8:32)。確かに、わたしたちには「打ち砕かれ悔いる心を」もって伏すしか、御前で生きる術はないのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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