これは恐ろしい章です。人間の罪深さが示されているからです。ユダヤの王ダビデは沐浴中の人妻、バト・シェバを見染め、権力を傘に着て関係を持ち、妊娠させてしまいます。それが発覚しないよう、バト・シェバの夫ウリヤを戦地から呼び戻して夫婦の営みをさせ、生まれてくる子供の父親はウリヤであるように画策しますが、失敗に終わります。そこで更にあくどいことを考えます。夫ウリヤを戦地の第一線に送り出し戦死するよう、ダビデは指揮官ヨアブに命じたのです。思惑通りウリヤは戦死します。晴れて(?)、ダビデはバト・シェバを自分のものにします。今日なら、〈文春砲〉が飛びつきそうなスキャンダラスな事件です。
巷間
の噂話の格好のネタです。
しかし、これは、その程度の事件ではありません。これは、主なる神が怒り給う出来事なのです(上記聖句参照)。十戒で言えば、直接的には第6,7,8,10に触れる罪です。否、
傍若無人
に振舞って自分を神にしているということから言えば、十戒の全部の言葉に
悖
る行為です。
「嘘の果てには嘘しかないように、罪の先には罪しかない。彼のこれからを本当に思うなら、今、彼をまっとうに裁かなければならない」(柚月裕子『検事の本懐』角川文庫)。実際、ダビデは一つの罪を隠すために、別の複数の罪を犯しました。罪の先にあるのは、やはり罪です。そしてそれは、自分の「腹を神とし」(フィリピ3:19)ている我々の姿でもあります。我々もまっとうに裁かれるべき存在なのです。しかし、裁きを受けたら、誰も御前に立つを得ません。それで、主なる神は、我々の罪をまっとうに裁くために、独り子なる神、主キリストを真の人として遣わし十字架にかけ給うたのです。
その主の恵みの御業を思うとき、御前に伏すしかありません。
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