あなたを生かす聖書の言葉

2020年11月1日(投稿)

今週の聖句    サムエル記下6章

  聖書「わたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で…わたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう」(サムエル記下62122)。

サムエル記下6:111には、神の箱がエルサレムに運び込まれた時のことが記されています。ウコンの麦打ち場に差し掛かったときに車が傾き、神の箱が落ちそうになりました。ウザはとっさに「手を伸ばし、神の箱を押さえ」(6)ました。しかし、主なる神は彼に対して怒りを発して打ち、彼は死にます。神の箱は神の御臨在を示すものでした。その意味では、神の箱は神ご自身と言って良いほど神聖なのです。だからこそ、それが車から落ちて壊れでもしたら申し訳が立たないと思い、ウザは神の箱を押さえたのでしょう。しかし、神はそのウザを打ったのです。誰しもが、なぜ? と思うでしょう。

その事件の三か月後、神の箱は、無事に神の都エルサレムに運び込まれます。ダビデは喜び、全裸に近い恰好で飛び跳ねて踊り、喜びを表しました(17)。それは、人間的に見れば、妻ミカルでさえ軽蔑するほどの愚行でした。しかし、神はそれを咎めませんでした。わたしたちだったら、身を挺して神の箱を守ったウザを称賛し、御前で裸踊りをしたダビデは下品だと言って侮辱するでしょう。しかし、神は違いました。

神は、人によって支えられなければ立つを得ないお方ではないのです。サムエル記下7章を読むと、ダビデは神殿を建てようとしますが神によって拒まれ、神はダビデの子に建てさせると仰せになりました(7:13参照)。そのことからも分かります。主導権はいつも神にあるのです。わたしたちが神を支えるのではなくて、神がわたしたちを造り、保ち、救いへと向かわせてくださるのです(ロマ11:36参照)。わたしたちが為し得ることは、愚かと言われることをも厭わず、主の御前で卑しめられ低い者となって、御名を崇めることにあるのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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