去年(2018年)戴いたクリスマス・カードの一枚に、上記の聖句が記されていました。神の御子であるイエス様がこの世に遣わされて来られたことによって、またそのイエス様をわたしたちの救い主・キリストと崇めることによって、わたしたちは魂のみならず、すべての面で恵まれ、健やかであることができるのです。逆に言えば、その主イエス・キリストへの信仰が失せるとき、健やかさもまた失せるのです。
第三ヨハネの教会には、その健やかさに欠ける人がいました。ディオトレフェスという人物です。彼は「指導者になりたがってい」(9節)ました。権力志向の野心家だったのかもしれません。「彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(10節)という言葉から考えると、自分たちの仲間だけを重んじる党派心の塊で、他との協調性がなかったということなのかもしれません。前回も記しましたが、キリストにさえ先んじて、自分を主にしようとしていたのかもしれません。詳細は不明ですが、いずれの在り方であれ、それらの根源にあるのは、教会の真の指導者であり、頭である主イエス様への正しい信仰の欠如です。
異端とは「多く言うか、少なく言うかである」と言っている人がいます。聖書のある部分だけを強調したり、逆にある部分は認めないという偏った在り方が、異端に繋がるのです。多く言うのでも少なく言うのでもなく、信仰告白全体を余す所なく受け入れ、その信仰告白に基づいて語られている御言葉を、また信仰告白に基づいてきちんと聞いていくのです。そこに健やかな教会が立ちます。そのような教会に連なるとき、わたしたちの信仰生活も健康になります。真の神にして真の人であるキリスト信仰に留まりましょう。
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