第三ヨハネは、長老ヨハネがガイオに宛てた手紙です。ガイオという名前は、新約聖書の他の箇所に何度か出てきますが、いずれも別人です。従って、このガイオが何者であるか不明です。しかし、彼は、「よそから来た人たち(恐らく、教会に遣わされてくる巡回伝道者たち)のために誠意をもって尽くしていま」した(5節)。その伝道者たちが、そのガイオの好意を愛に満ちたものと証しするほどでした(6節)。
主イエスは、弟子たちを伝道に遣わすに際して「杖も袋もパンも金も…下着も二枚は持ってはならない」(ルカ9:3)と仰せになりました。伝道者たちは、かつても今も、必要な物を与えてくださる主をこそ信頼し、その主の御言葉を宣べ伝えることに専念するのです。それならば、それらの者を篤くもてなすことは主に祝せられることであり、その行為は、福音という真理のために共に働く」行為とされるのです。そのことを覚えて、教会はいつの時代でも、御言葉の役者(エキシャ)を重んじるのです。それは御言葉の主を重んじることにつながり、更には主の教会の健やかな形成につながっているのです。
しかし、教会には、御言葉ではなく自分を頭にしようと思う者が、いつの時代にも表れます。この教会にもいました。ディオトレフェスという人です。この人についても詳細は不明です。ただ、彼は「指導者になりたがってい」ました(9節)。これは「先に行きたがっていた」と訳すことができる字です。それは単に、他より抜きんでることを願ったということではなく、教会の主であり頭である主イエス・キリストに先んずることを願っていたということでしょう。自分を誉を帰したかったのです。しかし、それが教会を壊すのです。時代や場所を問わず、自分ではなく主にこそ誉を帰し、み言葉の故にその役者を重んじることによって、教会は健やかに建ってゆくのです。
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