あなたを生かす聖書の言葉

2019年5月19日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

キリストの教えにとどまる  

 聖書「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」(Uヨハネ9)

ここの「キリストの教え」とはイエス様の教えのことではなく、イエス・キリストは真の神にして真の人であると信じる信仰のことです。その信仰こそが教会の伝統的な信仰です。しかし、そのことを信じない「反キリスト」(7節)がしばしばいろいろな姿形を取って表れ、教会の信仰を蝕んできました。このヨハネの手紙二が宛てられた教会にも、その反キリストの主張が入り込んでいました。

その者たちについて、ヨハネは「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」と言います。この「越える」という字は「通り過ぎる」という字です。教会の伝統的な信仰を通り過ぎる、つまりスルーして、教会から出ていってしまうのです。それは今でもいろんな仕方で現れます。例えば、十字架の主、復活の主を主として礼拝することも大事だが、それ以上に、イエス様が社会的弱者への愛に生きたようにわたしたちもそうすることが大事だとする主張も一つの事例です。それは、真の神にして真の人であるキリストへの信仰をスルーして、自分たち人間のことを主とすることになるのです。

毎週の礼拝で《罪の告白》ということで交読する詩編51:19には、「打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」とあります。願われていることは、自分が積み重ねてきた信仰の実績であれ良い業であれ、それらにとどまるのではありません。むしろそのように自分の業を誇ろうとする自分を打ち砕くのです。Uヨハネの言葉で言えば、そのような自分を「越え」、スルーするのです。そして、わたしたちの罪の赦しのために、真の神であられたが真の人となり給うたキリスト・イエスをこそ主とし、その主の御前に伏し、主として崇めてゆくのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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