「死に至る罪があります」と、聖書は語ります。それはどういう罪でしょうか。そしてそれについては「神に願うようにとは言いません」というのです。どうしてでしょうか。死に至るような罪の内にある者のためにこそ、積極的に行動することが大事なのではないでしょうか。
「死に至る罪」を犯している者とは、Tヨハネの場合、「反キリスト」と呼ばれている異端のことでしょう。彼らは、表面的にはキリスト教信仰と似ていましたが、イエス様が人となり給う神の独り子であることを否定し、信じませんでした。わたしたちは、そういう異端に対してこそ積極的に仕掛けて行って、彼らを悔い改めに至らせる必要がある、と思うかもしれません。しかし、思い上がってはいけません。わたしたちは彼らよりも聡明だとは限りませんし、わたしたちが思っているより、彼らの方が遥かに狡猾である場合が少なくないです。主イエスもそれに似たような者たちが現れたら、山に逃げなさいと勧めました。戦うのではなく、逃げよと言うのです(マルコ13:14以下参照)。そして、それらの者については神に委ねるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)と言われている通り、神こそがそれらの者に対応できるのです。その者たちは、わたしたちではなく、神さまの守備範囲にいる者たちなのです。
「死に至る罪」というのは、「死が決定している罪」ということではなく、「死に向っている罪」ということだと言っている人がいます。わたしたちも、元はと言えば、死に向かっている罪人でした。そのわたしたちを、神は御子によって救いに与らせてくださったのです。わたしたちはそのような者については全能の神に委ねて、その神がお働きくださるよう祈ってゆくのです。
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