あなたを生かす聖書の言葉

2018年2月17日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

神は愛である

 聖書「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ410)

この「ここに愛があります」ということについて、これはhigh water markであると言っている人がいます。豪雨や洪水などで床上浸水しますと、水が引いたのちに、ここまで水が来たということを示す泥の線がつきます。それをhigh water markと言うのだそうです。

ここでは、勿論、神の愛の話です。神の愛がここまで及んでいる、こんな所にまで来ているという示す言葉が、「ここに愛があります」という字なのです。それでは、神の愛がどこまで来ているのでしょうか。神の愛のhigh water markはどこに付いているのでしょうか。それは、実は、このわたしたちの教会です。このわたしたちの教会にまで神の愛は及んでいるのです。教会に神の愛が及んでいるのは、当たり前ではないかと思うかもしれません。しかし、それは驚くべきことなのです。

教会はキリストの体です。キリストが頭(カシラ)として臨んでおられる群れです。ですから、わたしたちはキリストを頭とし、キリストを主として崇めるべきなのです。しかし、わたしたちは、その教会においてさえ、主ではなく自分に誉を帰そうとして、主の御言葉に聞き信頼するよりも、人の言葉に聞き、それを頼りにしようとするのです。それほど、わたしたちの群れも罪を犯すのです。そのような破れだらけの教会、罪にまみれてしまっているような教会であり、神の愛を受けるに値しないわたしたちの所まで神の愛は達しているのです。正にここ京都大宮教会にまで、神の愛が及んでいるのです。

その神の愛に応えて、神を愛するのです。罪しか見い出し得ない存在かもしれませんが、そのわたしたちにまで愛が及んでいることを覚えて、わたしたちの神、主を尋ね求め、主の御名を崇めるのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

今週の聖句(バックナンバー)