あなたを生かす聖書の言葉

2018年12月16日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

安心の信仰  

 聖書「わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に安心できます、心に責められることがあろうとも。」(Tヨハネ31920)

 「心に責められることがあろうとも。」わたしたちのなかに、仮に他者に対して心に責められることがないと言える人が、万一いたとしても、主なる神に対してそのように言える人は誰もいないでしょう。なにごとであれ、御前に隠しておくことは不可能です。自分では隠しているつもりでも、或いはまったく忘れていて身に覚えがないと思えることであったとしても、神は一切をご覧になっており、またご存じであられます。ですから、その神から見れば、わたしたちは皆、心に責められることがあることを認めるほかないのです。

しかし、そのようなわたしたちであっても、また神の御前に出て神の裁きを受けることになったとしても、安心できるのです。「わたしたちは…真理に属している」からです。ここの「属する」という言い方は、「〜から出る」「〜から来る」という字です。そこに起源がある、源がある、或いはそこに根差しているという字です。わたしたちは、「わたしは…真理…である」(ヨハネ14:6)と仰せになった主キリストから出ているのです。その主イエスに源をもち、その主に根差しているのです。そしてその真理である主は、「心に責めれらる」ようなわたしたちの罪を担い、十字架に掛かって贖ってくださったのです。ですから、わたしたちは安心して御前に出で、また立つことができるのです。

「われわれの不真実は、神の真実を無効にしない。主は福音が滅びることを許したまうことはない」(レーヴェニヒ)のです。主のわたしたちに対する御心には変わりはないのです。正にそれは真理です。わたしたちは真理の主に連なり、その主のものとされているのです。その恵みに信頼するとき、安心の信仰をもって歩んでゆけるのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

今週の聖句(バックナンバー)