あなたを生かす聖書の言葉

2018年10月14日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

神の子に似た者となる  

 聖書「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(Tヨハネ31)

 上記聖句は、文語訳聖書では「見よ、父の我らに賜いし愛の如何に大いなるかを。我ら神の子と稱(トナ)えらる。既に神の子たり」となっています。大切なことは「見る」ことです。神がわたしたちに与えてくださっている恵みの事実をしっかり見る、そしてじっと見据えるのです。自分の側の事情を見るのではありません。「唯今の状態は甚だ恥ずかしい程度のものである。しばしば誘惑の影が霊性を襲うて秋の空のしぐるるときの無きにあらず、いわんや幾日も晴れやらぬ梅雨の空にも似た精神状態はまれではない」(熊野義孝『ヨハネ書簡の研究』)という自分の状態を見て、嘆いて終わるのではないのです。その自分の状態を超えるほどの大いなる神の愛を賜わっているという事態に、注目するのです。それがキリストを信じる者の在り方です。

神の大いなる愛によって賜わっている事態とは、わたしたちが「既に神の子たり」と言えるようになっているということです。独り子なる神、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、そのことが生起し、わたしたちに与えられているのです。だからこそ、わたしたちは罪を重ね、御名を汚してばかりいても、「御子が現れるとき、御子に似た者と」(2)されるのです。パウロの言葉を使って言えば、「わたしたちの卑しい体を、御自分(キリスト)の栄光あるからだと同じ形に変えて」(フィリピ3:21)戴けるのです。それほどの神の愛の内に、わたしたちは置かれているのです。その愛に包まれており、神の愛の絆で固く結ばれているのです。仮令、サタンが罪と死の力をもって襲ってきても、その関係は損なわれることはありません。その恵みの事態を凝視し、感謝し信頼すればこそ、わたしたちは、どのような事態が降りかかってきても、喜びをもって御名を称えて信仰生活を送るのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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