わたしたちの教会が告白している「1890年日本基督教会信仰告白」には「古の預言者、使徒および聖人は聖霊に啓廸(ケイテキ)せられたり」という文言があります。啓廸という字は、殆ど使われることがない字ですが、「啓」も「廸」も「教え導く」という意味です。名詞として使われると、「道」という意味になります。わたしたち教会は、常に聖霊によって歩むべき道を示され、導かれて歩んできたのです。ここの「この油が万事について教えます」という言葉も、そのことを言っています。
勿論、「万事」とは言っても、聖霊が専ら示してくださるのは、主イエスに対する正しい信仰です。このTヨハネ2章では「反キリスト」が問題になっていますが、それらの人々の主張には救いはなく、主イエス・キリストにこそ救いがあることを、聖霊は御言葉によって示してくださるのです。わたしたちはともすると、自分の思い通りになることや自分の願いが叶うことが救いだと思ってしまいます。しかし、そうではなくて、主キリストの御心の通りになる所、即ち主の勝利が成る所にこそ真の救いがあるということを、聖霊は御言葉によって示してくださるのです。
エレミヤは、不承不承でしたが、神の御言葉を伝えました。案の定、誰も聞いてくれません。だからもう語るのを止めようとします。しかし、そのように思っても御言葉が強く迫ってきて、語らざるを得なかったのです。彼は言います、「あなたの勝ちです」(エレミヤ20:7)、「わたしの負けです」(エレミヤ20:9)と。そのように御前に敗北を認め、主こそが勝利者であること(御心の通りになること)を信じ受け入れる所にこそ真の救いがあることを、聖霊は御言葉によって教えてくださるのです。その教えられたとおり、御言葉の主である御子の内にとどまる生活をしてゆくのです。
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