あなたを生かす聖書の言葉

2018年9月2日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

世と世にあるものは過ぎ去る  

 聖書「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。」(Tヨハネ215)

20年以上も前、当教会のイクスース会(青年会)で、最初の修養会を行った時でした。主題は「礼拝と生活」でした。その主題は青年たち自身が考えたのですが、恐らく礼拝と日々の生活とがあまりにも乖離しすぎている、それでよいのか、またどのようにすればその隔たりを埋めることができるのか、共に考え話し合おうと思って、その主題を掲げたのでしょう。

その主題のまとめの講演の時、わたしは以下のようなことを申しました。「礼拝の時間は長くても90分、これは一週間全体の時間から見れば0.1%にも満たない。しかし、この0.1%にも満たない時間が、わたしたちの一週間の全生活を支えている。扇子は《要》があるから扇子として有用となる。《要》がなければ、単なる竹ひごと布に過ぎず、無用の長物と化す。それと同じように、礼拝は一週間の内の0.1%に過ぎないが、わたしたちの一週間の全生活を支え、意味あらしめる《要》である。それを「礼拝と生活」というふうに「と」という小さな接続詞で並べると、両者は同じ重みを持つものになり、その分、礼拝の重要度を軽くしてしまうことになる。礼拝と日々の生活は並列の関係ではなく、礼拝が全生活の要、支え、土台であることを忘れず、礼拝を重んじる生活を送りたい。」

「世も世にあるものも、愛してはいけません」というのは、世のことを厭い、無視しなさいということではありません。過ぎ去りゆく世と世にあるものを、永遠なる神と並列の関係にしてはならないということです。そこでは、神をその御座から引きおろし、神による救いも安価な恵みにしてしまうことになります。願われていることは、「わたしのほか何ものをも神としない」(出エジプト20:3)ことです。主をこそ、わが主、わが神として礼拝し続けること、その礼拝を《要》とする生活を送ることなのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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