「神を知っている」という言葉が、Tヨハネ2:3,4で繰り返えされています。この手紙が宛てられた教会では、御子の十字架の死によってではなく、神を知る特別な知識を持つことで救いに与るとする異端が入り込んでいました。この「神を知っている」という言葉は、それらの人々を念頭に置いてのことでしょう。神を知る特別な知識と言いますが、わたしたちには神を知ることができるのでしょうか。「手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか」(イザヤ40:12)とあるように、わたしたちには神を知る力量も術もないのです。わたしたちが神を知ることができるとすれば、神が御自身を啓示してくださる時です。そして神は、今や、御自身を独り子なる神、主イエス・キリストにおいてお示しくださっているのです。主なる神は、神を知り得ないほどの罪の内にあるわたしたちを知り愛したもうたからこそ、そのようにしてくださったのです。主なる神は、既にわたしたちを知り、わたしたちを御自身の内に置いてくださっているのです。
ですから、わたしたちは、まず主イエスさまの御言葉に聞いて、わたしたちが神の内に置かれていることを知るのです。わたしたちが神を知る前に、神がわたしたちを知ってくださり、御自身をお示しくださるほどの神の愛の内に置かれている事を覚えるのです。罪の内にある自分において「神の愛が実現してい」(5節)ることを覚え、「イエスが歩まれたように自らも歩」むのです。主イエス様はいつも主なる神の御栄光を表すために御前に遜って歩まれましたが、わたしたちも「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編109:105)である御言葉によって歩むべき道を照らしていただいて、主なる神にこそ御栄えを表す歩みをしていくのです。
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