礼拝奏楽の時、『マタイ受難曲』39番のアリアが奏されたことがあります。それは、「たとえ死なねばならなくなっても、主イエスのことを知らない等とは言わない」と豪語したその舌の根が乾かない内に、主の予告通りに三度主を知らないと言ってしまったことを悔い、大祭司の庭の外に出て号泣したペトロの思いを歌ったものです。「神よ、憐れみ給え、ただこのわたしの涙の故に」と歌われます。
ペトロ同様、わたしたちも、しばしば主なる神を捨てます。しかし、かみは、そのようなわたしたちを憐れみ給うて、独り子なる神をお遣わしくださいました。しかも、わたしたちが「見、また聞いた」と言える仕方で、です。御子はわたしたち同じ罪人の一人に数えられる方として来られ、罪の贖いのために十字架にかかり、わたしたちに御前での生命を与えてくださるために死者の中から甦らされたのです。それにより、わたしたちは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の内に入れられました。教会はそのことを宣べ伝え続けてきました。今日もまた、イエス様のことを知らないと言ってしまいかねない自分を、その自分と同じ罪を犯しかねないあなたも、その御父と御子との交わりの中に入れてくださるために主イエスは来たり給うということを、わたしたちは宣べ伝えているのです。
わたしたちは、その主に向かって「わたしを憐れんでください」と祈りつつ主を礼拝するのです。見、また聞くことができるように成ってくださった主キリストの体に組み込まれている者は皆、その点で一つになるのです。勘違いしてはなりません。人の声でなく主の声に聞いて主を礼拝するという点で一つになっている教会こそが、真の交わりがある教会なのです。
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