あなたを生かす聖書の言葉

2017年6月18日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

独り子なる神の埋葬  

 聖書「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。(マルコ 15:47)

 上記の聖句の「見つめていた」という字は、少し前の40節で「見守っていた」と訳されている字と同じ字です。女性たちは、そのようにずっと、主イエスを見守っていたのです。彼女たちの視線はいつも主イエスに注がれていたし、心もまた常に主イエスに向けられていたのです。「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」(詩編8611)という祈りの言葉がありますが、十字架の下にいた女性たちは、正にその一筋の心を持っていたのです。弟子たちは主イエスを見ることなく、主に背を向けて逃げましたが、彼女たちは主を畏れ敬う一筋の心に生きたのです。

主イエスは独り子なる神ですから、死ぬことはありませんし、ましてや葬られることなどあり得ないのです。しかし、そのあり得ないことが起こったのです。わたしたちの罪の贖いのためです。主イエス・キリストの死と葬りとによって、わたしたちは御前に生きる者とされたのです。それなら、わたしたちもその主を見るのです。見上げるのです。

ここでは、アリマタヤのヨセフが「勇気を出して…イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」とあります。彼は主イエスの処刑の決議には同意していませんでしたが(ルカ2351)、その裁きのときは何も発言しませんでした。勇気を出すとすれば、本当はその時だったでしょう。彼は勇気を出す時が遅かったのです。しかし、主なる神は、それでも認めてくださるのです。「この人神の国を待ち望んでいた」と言って、彼のことを評価してくださるのです。わたしたちも、遅いかもしれないと思うかもしれません。しかし、今からでも良いのです。主を見上げ、主に心を寄せるのです。「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください」と祈って、主を畏れ敬い、主に仕える志を新たにしていくのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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