あなたを生かす聖書の言葉

2017年6月4日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

キリストの受難の証人  

 聖書「百人隊長が…イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ 15:39)

「本当に、この人は神の子だった」と告白した百人隊長は、当然、異邦人です。当時のユダヤでは、異邦人の証言は信頼するに足りなかったのです。しかし、その百人隊長に「この人は神の子だった」と告白させて、彼を、主イエスの十字架の苦難と死の証人として用い給うのです。それは、人間的には取るに足りないと思われる者たちにも、十字架の恵みは及ぶということを示しています。

考えてみれば、わたしたちは誰であろうと、自分の力で主への信仰を言い表し、主の救いを勝ち取ることはできないのです。ここの百人隊長は、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とき、「この人は神の子だった」と告白したのです。神殿の垂れ幕が裂けたということは、神の側から神御自身に至る道が開かれたということです。だからこそ、彼は主への信仰を言い表すことができたのです。彼は、恵みによって導かれて、信仰を告白し救いの道を辿ることができるようにされたのです。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。/宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木に過ぎない、と。」(イザヤ563)という言葉があります。異邦人は勿論のこと、宦官も去勢している故に、神の救いに与ることはできないと考えられていました。しかし、聖書は言う、異邦人は、自分は神の民ではないと言うな。宦官も、自分は救いという実りのない枯れ木に過ぎないと言うな、と。ということは、神はどのような者にも神に至る道を開き、救いを給うてくださるということです。

わたしたちも、恵みの故に救いの道を開いていただいているのです。そのことを覚えて、わたしたちも主イエスこそ真の「神の子である」と告白して、十字架の主の証人として歩んでいくのです。  

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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