主イエスは兵士たちから屈辱的仕打ちを受けたのち、ご自身がかけられることになる十字架の横木を担って、刑場・ゴルゴタに向かって歩み始めます。のちに「悩みの道」と呼ばれるようになった道を辿ってです。しかし、聖書はその悩みの道での様子を殆んど何も記していません。だから、後代になって、その道での様子を示すいくつかの伝説が生まれたのでしょう。
聖書が、わたしたちに何としても伝えたかったことは、主イエスの苦しみの内容ではなくて、主キリストの十字架の死という出来事だったのです。上記に記した24節の言葉も、実は「そして」「イエスを」「十字架につけた」という三文字が使われているだけです。そのように簡潔に記することによって、そのことこそが大事であり、そこにこそわたしたちが心を寄せるべきだということを示そうとしているのです。
イエス様が十字架についたのは、わたしたちの罪の贖いのためでした。主イエスは「罪人たちのひとりに数えられた」(口語訳28節)のです。真の神の子であられましたが、わたしたちに代わって罪の裁きを受けることによって、わたしたちを裁きを受けるべき罪のとりこから解放し、罪赦された義人としてくださったのです。わたしたちは、そのことにこそ心を向け、また心を開くのです。その神の恵みの御業に心を開き、神の救いの御業への信仰を深めるのです。更に言えば、わたしたちの罪の贖いのために独り子なる神を十字架におかけになることを厭いはしなかった主なる神の深い愛を思って、その主なる神への畏敬の思いを持つのです。主の御名を畏れ敬う一筋の心を持って御名をたたえるのです。主は「わたしたちが人間に目を注ぐことを決して欲していない。…このみ言葉を語られる方を見ることを、断固として要求する」(リュティ)と言っている人がいますが、そのように十字架の主をこそ仰ぎ見、その主の御言葉に聞き、御名をたたえていくのです。
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