あなたを生かす聖書の言葉

2017年3月26日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

御心のままに  

 聖書「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ 4:36)

 ある神学者は、主イエスはゲッセマネで悪魔から最終的な決算書を突き付けられていると言っています。主イエスは公生涯に入る前に、悪魔の試みを受けました。そのとき、悪魔は「時が来るまでイエスを離れ」(ルカ413)ました。でも、主イエスの生涯の終わりに際して、悪魔は最終的な収支決算書を突きつけて、再び主イエスを試みたのです。言って見れば、次のようなことでしょう。「自分の罪の深さや重さを知ろうともしない者たちのために十字架にかかるというのか。これが彼らの収支決算書だ。彼らはどれほど御前での義をかち得ているか。義という黒字があるか。罪、罪と、罪の赤字しかないではないか。そんな者たちのために十字架にかかったって、あなたを神の子と信じる者なんていないだろう」。言って見ればそういうことでしょう。主イエスはここで、サタンから最終的決算書を突き付けられて、進退窮まるほどまでに悩み苦しみ、祈り戦って、罪という赤字だらけの、わたしたちの決算書を身に負うことにしたのです。「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈って、神の御心に従って十字架にかかる道を選び取ったのです。

そういう主の祈りと戦いによって、わたしたちの罪の贖いの道が開かれたのです。それなら、わたしたちも「御心が行われますように」と祈っていくのです。わたしたちは「御心が…」と言いながら、実際には自分の思い通りなることを願っていることの方が多いのです。そうではなくて、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ1811)と主が仰せになったように、自分に不都合なことが降りかかってきたとしても、それを父なる神が与えてくださった杯として受け入れていくのが、「御心が行われますように」ということなのです。そのことを覚えて、何があっても主に従っていくのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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