あなたを生かす聖書の言葉

2017年3月5日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

「みんながつまずいても」

 聖書「あなたがたは皆わたしにつまずく。・・・しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(マルコ 1427)

主イエスの仰せの通り、弟子たちは誰も、イエス様に従い抜くことはできませんでした。この後、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いましたが、そのペトロも、主イエスが予告された通り、鶏が二度なく前に三度主イエスのことを知らないと言ってしまいました。そのように、主イエスとの関係を否定したのです。その「皆」の中には、わたしたちも入っています。わたしたちも主のために自分の命を捨てるのではなく、自分のために主イエスを知らないと言い、主を捨ててしまいかねないのです(「知らない」という字は「捨てる」とも訳すことができます)。

しかし、主イエスはそういう弟子たち(わたしたち)を見捨てることはなさいませんでした。弟子たちは皆つまずきましたが、「みんながつまずいても」主の恵みには変わりはなかったのです。実際、主は復活の後にガリラヤに先回りして、弟子たちにご自身をお示しくださったのです。そして、あなたがたはなお御手の内にある、否、ご自身がかち取ってくださった復活の生命に生きる者とされているという恵みを賜ってくださったのです。そのようにして、ご自身の方から、主イエス御自身との方から関係性を回復してくださったのです。この箇所で主イエスはゼカリヤ書の言葉を引用していますが、そのゼカリヤの引用箇所に出てくる言葉で言えば、「わたしは…「彼こそわたしの民」と言い、彼は「主こそわたしの神」と答える」(ゼカリヤ139)いう関係を与えてくださっているのです。

そういう恵みに与っているのですから、わたしたちはその恵みに生きるのです。恵みによって主の民とされていることに感謝して、「自分を捨て、自分の(原語では「彼の」いう代名詞です。だから「主の」と訳してもよい)の十字架を背負って」(マルコ834)主に従っていくのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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