これは、主イエスが過越の食事の席で仰せになった言葉です。それを聞いた「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた」と、聖書は記しています。十二弟子たちは、どの者も皆、確信がなかったのです。実際、イスカリオテのユダは主イエスを祭司長たちに引き渡すことを既に決めていました(10節参照)。他の弟子たちも皆、このあと主イエスが逮捕されたとき、「イエスを見捨てて逃げてしま」いました(50節)。ペトロは大祭司の庭までついて行きましたが、そこで三度主イエスを知らないと言って、主との関係を否認しました(66〜72節)。そのように、十二弟子のうちの一人どころか、すべてが主イエスを裏切ったのです。
言うまでもなく、主イエスの十二弟子は、新しいイスラエルである教会を指し示しています。その教会であるわたしたちも、主イエスと一緒に聖餐という食事をしているのです。ですから、わたしたちも「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」という主イエスのお言葉を、重く受け止める必要があります。実際、わたしたちも「神のことを思わず、人間のことを思って」(8:33)、御名を汚すということをするのです。
しかし、主イエスは、そういうわたしたちの罪を取り除く神の小羊として十字架にかかってくださり、わたしたちの罪を贖い、御前で新たに生きる者としてくださったのです。その主イエスの十字架による罪の贖いを覚えれば、主イエスを十字架へと引き渡すのではなく、自分自身を主イエスに引き渡していくのです。即ち、主に無条件降伏して一切を明け渡し、主に従っていくのです。それようにして、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として証ししていくのが、新しい神の民である教会の歩みなのです。
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