あなたを生かす聖書の言葉

2017年1月29日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

「主に祝される行為」 

 聖書「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

(マルコ 149)

「語り伝えられる」と訳されている字は、「覚えられる」と訳すこともできます。では、誰に覚えられるのでしょう。人々に覚えられるということもあるでしょうが、神に覚えられるということでもあるでしょう。この女性が主イエスにしたことは、神さまによって永遠に覚えられるのです。それほど、祝福されるような行為なのです。

この女性のしたことは、三百デナリオンにもなる香油を、主イエスの頭に注いだということです。その行為に対して、何人かの者が「なぜ…無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言いましたが、主イエスはそれを御自身の埋葬の準備として受け止めてくださったのです。そのように受け止めたということは、主イエスは、ご自分が十字架にかかってわたしたちの罪を贖い罪の赦しを賜うお方であることを認めたということです。実際、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(Uコリント89)という言葉の通り、主が十字架の低きにまで降り、更には葬られるまでになって、わたしたちは御前に生きる者とされるという富を得たのです。考えてみれば、そのように独り子なる神が十字架におかかりになって罪を贖ってくださったのに、多くの者はそれを信じようとしなかったのですから、それこそ無駄遣いだと言って良いでしょう。しかし、神は罪の贖いのために御子を十字架に渡すという、無駄遣いとしか思えないような行為を、厭いはしなかったのです。

そのことを覚えれば、この女性が「できるかぎりのことをした」と言われているように、わたしたちもできるかぎりのことをもって、即ち自分自身を献げて主に仕えるのです。それが主に祝されることになるのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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