あなたを生かす聖書の言葉

2017年1月8日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

「人間の計略、神の計画」

 聖書「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。」(マルコ 141)

主イエスに対する殺意は、ずいぶん前からありましたが、今や具体的な「計略を…考え」るまでになってきました。他方イスカリオテのユダですが、彼もまた「どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(11)のです。そのように、人間の側では主イエスを捕らえて殺そうという計略が練られ、それが徐々に具体化して行ったのです。そして遂に主イエスは捕らえられて、裁判を受け十字架で死ぬことになります。そのことを思うと、人間の計略通りに事が運んだように思えるのです。

しかし、実際は、人間の計略ではなくて、神のご計画の通りになっているのです。ここでは一つのことだけ申しますが、祭司長たちは「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と話し合っていました(それが人間の計略です)。しかし、実際は、過越の祭りの間に、イエス様は捕らえられて十字架につけられたのです。そのことによって、かつての出エジプトのとき小羊が屠られることによって災いが過ぎ越し奴隷からの解放が実現したように、今や独り子なる神、主イエスが過越しの小羊として十字架に屠られることによって、わたしたちを罪の奴隷から救い出すという神のご計画が実現したのです。

そのように神のご計画、神の御心こそが成るのです。わたしたちがどれほど入念に計略を練ってもその通りに成るのではなく、主の御旨こそが成るのです(箴言1921等参照)。そしてその神の御心は、独り子なる神、主イエスの十字架の死による罪の贖いということからも分かるように、わたしたちを救うことにあるのですから、わたしたちに何が起こっても案ずる必要はないのです。自分の思いの通りに成る成らないによって一喜一憂するのでなく、実現する神のご計画の内にあることを覚えて、御名を称え続けるのです。

 

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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