当時の人々は、政治的解放をもたらしてくれるダビデ家の血筋を引くメシアの到来を待望していました。主イエスがそのようなメシアであると思っていた人も、少なくなかったでしょう。だからこそ、ここで主イエスは詩編110:1を引き、更には上記の聖句のように語ることによって、御自分はそういう意味でのメシアではないことを明らかになさったのです。
確かに、主イエスはダビデの家系からお生まれになり、王国をもたらします。しかし、主イエスのもたらす国は「この世には属していない」(ヨハネ18:36)神の国なのです。主イエスは十字架の死と復活によって罪と死に対する勝利を得て神の国(支配)を成し遂げ、そこにわたしたちを入れて下さるのです。主イエスは、そういう救い主として世の初めから終わりまでいまし給うのです。
主イエスが詩編110を引用したとき、「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」と仰せになりました。詩編110:1はダビデの感想ではなくて、聖霊なる神がダビデを通して語られたことなのです。ということは、その詩編110:1で言われていること、即ち主イエスが終わりの時まで神の右の座に着き給うお方だということは、ダビデの時代から分かっていたことだったのです。ダビデの時代どころか、天地創造の初めから決まっていたことだったのです。主イエスは初めから終わりまで、わたしたちの罪と死に対する勝利者として、またそれらからの救いを賜う主であられるのです。そのことを、ご自身の十字架と復活において明らかにしてくださったのです。
わたしたちは、今もそしてこれからも、力ある神の御子である主イエスの支配下に置かれているのです。主が賜う救いに与って御前に生きる者とされているのです。だから、その主を賛美しつつ過ごすのです。
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