主イエスは、上記聖句のように、隣人愛に生きることをお勧めになります。口語訳聖書は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と訳していました。隣人を愛する前提というか、基礎にあることは、「自分を愛する」ということなのです。自分を愛すると言っても、何も自分中心にする、自己本位に生きるということではありません。今の自分を受け入れるということです。そういう自己肯定であり、自己受容です。
自分の思い通りの人生を生きているという人は、恐らく一人もいないでしょう。何もかもが自分の思い通りになっているという人も一人もいないでしょう。どうしてこんな困難や苦悩が続くのだろう、どうして生きることがこんなに辛いのだろう、どうしてこれほど罪を重ねるのだろう、そういうさまざまなことを思って自分のことが嫌になってしまい、自分で自分を肯定・受容できないという人も少なくないでしょう。
でも、そのように自分で自分を愛することができないようなこのわたしを、愛してくださった方がおられるのです。自己肯定できない自分を肯定し、受容してくださった方、そんなわたしたちの罪の贖いのために十字架におかかりになった方がいますのです。それほど、わたしたちを愛してくださった方がおられるのです。主イエス・キリストです。その主イエス・キリストの十字架において示されているわたしたちへの愛を覚えるとき、わたしたちは隣人を愛する歩みを始めることができるのです。少なくとも、隣人を愛して生きようとする勇気を得ることができるのです。
そのことから言えば、主イエスは、この第二の掟においても、第一の掟と同じようにわたしたちの神である主の愛を覚えること、その主の愛に立ち帰ることを勧めておられると言って良いのです。
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