上記の言葉は、言うまでもなく、もともとは建築に関係する言葉です。建築の専門家である者たちが、この石は建造物には不要である、役に立たないと言って捨ててしまった。でも、その石がのちにその建物を建てるのに欠かすことができない要の石になった、ということを言っています。しかし、ここでは、それは、主イエスの死のことを言っている言葉として使われています。主イエスもまた、当時の宗教界の指導者たちから、わたしたちの救いには何ら役に立たない、不要だと言って捨てられたのです。しかも、十字架にかけられるという無残な仕方で殺され、捨てられたのです。しかし、神は、その十字架の主イエスこそ、わたしたちの救いにとって欠かすことができないお方、また出来事としてくださったのです。わたしたち個人の救いだけではない、教会という神の家を建てるのに不可欠な要の石としてくださったのです。
それは、昔の話ではありません。わたしたちは今なお、繰り返し神の招きの言葉を拒むのです。神は御心を変えることなく、わたしたちを招き続けてくださるのですが、わたしたちは自分の勝手な思いからそのお言葉に聞かず、神に背を向けて歩んでいるのです。本来ならわたしたちは、そのことの故に裁かれても仕方がありません。しかし、神はわたしたちを裁くことを忍耐し続けただけではなく、遂にはわたしたちの罪を主イエスに担わせて、主を十字架にかけて裁いてくださり、わたしたちには救いが来るようにしてくださったのです。それは「わたしたちの目には不思議に見え」ますが、神はわたしたちを愛すればこそ、そのような御業を主イエスにおいてなしてくださったのです。その神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじる」(ローマ2:4)ことなく、御前に悔い改めて、主の恵みに感謝して参りたいものです。
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