あなたを生かす聖書の言葉

2016年7月3日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

「恵みの御業に委ねる」

 聖書「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答なさい。」(マルコ 1130)

祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスに問いま、「何の権威で、このようなことをしているのか」と。「このようなこと」とは「宮潔め」のことを指していると考えてよいでしょう。その問いに対する主イエスの答えの一部が上記聖句です。彼らは主の問いに答えることができませんでした。それは、彼らは「群衆が怖かった」からだと聖書は記します。

権威の所在とは「平たく言えば、何を気にしているかに関わる」と言っている人がいます。彼らも、本当は神の恵みによって祭司長、律法学者、長老等の立場を与えられたはずです。ですから、その主なる神にこそ心を寄せ、神が崇められるべきことをこそ気にし、また重んじるべきであったのですが、彼らは群衆の意見を気にしていたのです。言葉を換えれば、自分たちの評判を気にしていたのです。それをこそ重んじていたのです。

わたしたちは、誰もが主の恵みによって御前に立つことができているのです。主イエスの「天からか、人からか」という言葉で言えば、天から、上から、恵みによって御前に立つ者とされているのです。「人々からでもなく、人を通してもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされた」(ガラテヤ11)と、パウロは自分のことを語りましたが、わたしたちも同じことなのです。御前に罪しかなかったわたしたちのために主が十字架にかかってくださり、わたしたちに代わって罪の贖いをなしてくださったからこそ、そういう主の恵みと憐みとによってわたしたちは御前に立ち、キリスト者たるを得ているのです。

それなら、その主の恵みによる救いの御業を覚え、主にこそすべてを委ねて、日々、御名をたたえながら歩むのです。それが、わたしたちの信仰生活なのです。

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

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