「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいた盲人の物乞いであるバルティマイに向かって、主イエスは「何をして欲しいのか」と問いかけました。彼は「目が見るようになりたいのです」と答えます。すると、主イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになりました。しかし、彼のどこに、救いに至るほどの「信仰」があるのでしょうか。懸命に叫び求めたということが、その「信仰」なのでしょうか。でも、それは自分の目を開けてもらいたくて叫んでいるだけ、主を崇めようとして叫んでいるのではありません。彼には「信仰」と言うに値するものは何もありませんでした。でも、主イエスはその彼に、「あなたの信仰があなたを救った」と仰せになるのです。彼の救いは恵みによることです。彼は主の恵みによって目を開かれ、新たに生きる者とされたのです。
彼だけではありません。わたしたちは誰もが同じように信仰がないにも拘らず、主の恵みによって「あなたの信仰があなたを救った」と言って戴いているのです。復活の主の恵みによってこそ、わたしたちもまた主と同じ新しい命に生きる者とされているのです。だからこそ、わたしたちはその恵みの事実に生きるのです。
ここで、バルティマイに声を掛けたのは、主イエスではなく弟子たちでした。彼らは「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、彼に向かって語りかけました。この「立つ」という字は「復活する」と訳すことができる字でもあります。ですから、これは「あなたにも復活の命を与えられている、だから心安かれ」ということでしょう。そしてそれこそが、主の恵みによって新たに生きる者とされたわたしたち教会が語るべき言葉なのです。わたしたちもその言葉を語りつつ、「なお道を進まれる」イエス様を証しするのです。
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