あなたを生かす聖書の言葉

2016年5月1日(投稿)・主日礼拝説教(要旨)

命を献げるために  

 聖書「人の子は…仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ 1045)

「我らが神と崇むる主イエス・キリストは」(1890年、日本基督教会信仰告白)と、わたしたちは告白して来ました。主イエスは単なる愛の人とか聖人とかいうのではありません。主イエスは、わたしたちが御前にぬかづき、頭を垂れ、遜って御名を称えるべき主であり、神であるのです。しかし、そのお方が仕えられることをお求めにはならず、逆に仕えてくださったのです。単に、わたしたちの僕のようにして仕えてくださっただけではありません。「多くの人の身代金として自分の命を献げ」てくださったのです。

「身代金」というのは贖い代(シロ)のことです。具体的には、奴隷を買い取るときの代金のことです。わたしたちは神の御前では、有罪の判決を受けるほかない罪人であったのです。そのわたしたちを、罪の奴隷から買い取って御前に義人として生き得るようにしてくださるための代価として、主イエスはご自身の命を十字架に渡してくださったのです。そのことを覚えて、今度はわたしたちが仕えるのです。

「謙遜はただ、…罪責を取り去る十字架に支配されることによってのみ、得られる」と言った人(フォーサイス)がいます。この文章の「謙遜」を「仕える」と言い換えても良いでしょう。仕えるということは、何よりも「十字架に支配される」ことによって可能になるのです。主の十字架において示されている恵みの事実、愛の事実に支配されるのです。その主の恵み、その主の愛の内にある自分を認めて、そこに留まるのです。そのためにも、十字架の主を見あげるのです。「御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」(詩編8611)と祈りつつ、十字架の主を見あげて、その主を礼拝するのです。それが、身代金としてご自分の命を献げてくださった主キリストに応える道なのです。

 

京都大宮教会 牧師 渡邉宣一

今週の聖句(一つ前のページ)