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洛東
建仁寺

建仁寺方丈

アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(11分)→東山安井→建仁寺(スタート)→六道珍皇寺(ゴール)→東山安井
歩行距離等
●歩行距離:2キロ
●所要時間:1~2時間

■歴史 祇園花街の南にある。京の庶民からは親しみを籠めて「けんねんさん」と呼ばれている。臨済宗建仁寺派の大本山。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。建仁二年(1202)源頼家の援助で、中国の百丈山(江西省)に似せて建立。開山は日本禅宗の祖とされる栄西(11411215)。寺名は年号にちなむ。創建当初は天台・密教・禅の三宗兼修とされたが、十一世の蘭渓(らんけい)道隆(どうりゅう)の時から純粋な臨済禅の道場となった。至徳三年(1386)には京都五山の第三位となった。俗に「建仁寺の学問面(がくもんづら)」といわれ、詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出、五山文学と称された。また栄西宋から喫茶の風習と茶種を持ち帰『喫茶養生記』を著すなどして日本の茶祖と仰がれた毎年四月二十日開山(かいざん)降誕会(こうたんえ)に行われる四ツ頭(よつがしら)茶礼は、古式豊かな禅院茶礼を今に伝えている。

■見どころ 「建仁寺垣」と称される竹垣の一種は建仁寺で最初に作られた。方丈(本坊)は文明十九年(1487)に建立された広島県の安国寺の方丈を慶長四年(1599)に移築したもの。勅使門は鎌倉後期のもので、(やの)根門(ねもん)矢立門(やたちもん)の別称は、扉にある矢傷による。いずれも重要文化財。国宝の「風神雷神図」屏風は俵屋宗達の代表作として有名。「山水図」「雲龍図」は(かい)北友松(ほうゆうしょう)の作。

不思議
織田(おだ)有楽(うらく)(正伝永源院)
建仁寺の北を東西に走る団栗通の北側にある建仁寺塔頭・正伝永源院にある。同院には織田有楽斎(15471621安土桃山・江戸初期の武将、茶人。信長の弟。千利休門下。建仁寺に隠棲して茶の湯を楽しむ。当代一流の茶人で有楽流の開祖)が設計したという茶室如庵もある。『都名所図会』に「正伝院にあり。すなわち有楽翁の数奇屋あり」とある。



陀羅尼の鐘
陀羅尼(だらに)の鐘(建仁寺)
北門を入ってすぐ左手にある鐘楼の鐘をいう。伝説はいう。(みなもとの)(とおる)(822895。河原左大臣と称された。巨富により豪奢な生活を送る。源氏物語の光源氏のモデルとされる)の河原院にあった鐘が洪水で流されて、鴨川七条の鐘ヶ淵という深淵に沈んだ。栄西禅師が官の許可を受けて鐘を引き揚げようとするが、鐘は少しも動かない。そこで、禅師は力者に「エーサイ、チョスゲ」と掛け声を掛けて引き出すように命じたところ、鐘をいともたやすく引き揚げることができた。昔は、陀羅尼(だらに)経を誦してこの鐘を撞いたことから、「陀羅尼の鐘」という名がついた。この間の事情を『都名所図会』は「河原院の鐘は仏殿の北に二つの鐘堂あり、東の大鐘これなり。これ、融大臣、六条河原に殿舎を建てたまひ、後に仏閣となし河原院と号す。このところにありし鐘なり。荒廃の後、鴨川七条の南の深淵に沈む。栄西国師これを窺ひ知りて官吏へ訴へ乞ひ求めて当寺に掲くる。この鐘、かの淵を引き上ぐるとき、さらに動かず。しかるに国師のはからひとして〝力者の音頭に栄西、と唱へ、また国師の弟子長首座(ちようしゆそ)と呼んで引くべし〞と教へたまふ。力者大勢、これを懸け声にして、やすやすと当寺に移す。今重きものを引くにこの名を呼んで運送するはこの謂なり。またこの鐘、毎夜()の時より数九十(しょう)撞くなり。(しん)(しょう)には十八声なり。合はせて百八撞なり。昔は陀羅尼経を誦して撞きしゆえ、この鐘の音を称して建仁寺の陀羅尼といふ」と記す。

③宋の菩提樹(建仁寺)

 仏殿の南西にある。栄西禅師が宋から請来したものと伝える。菩提樹は釈迦如来成道の霊木という。『山州名跡志』に「堂前南北に在り。この樹、栄西、唐土より将来し植えせしむ。(元亨)釈書に載す」とある。『続古今集』に栄西の歌として「もろこしに渡り侍ける時。秋風身にしみけるゆふべ。日本に残りとどまれりける母の事など思ひてよめる。

 もろこしの梢もひさし日本(ひのもと)のははその紅葉散やしぬらん」がある。


宋の菩提樹


楽神廟

(がく)(しん)(びょう)(建仁寺)

 放生池の東にある。楽大明神とも、建仁寺の鎮守の明星尊を祀っているので明星社ともいう。栄西禅師の母がこの神に祈願して栄西を生んだので、祀られたという。『山州名跡志』に「仏殿の巽に在り。鳥居西向、社同。当山鎮守として栄西の勧請也。祭る所備中国、吉備津宮第三の神、楽の御前也。栄西の母この神に祈りて師を誕ず。よって鎮座す」とある。江戸期は建仁寺十境の一つ。

⑤矢の根門(建仁寺)

 八坂通に面した勅使門をいう。柱や扉に矢傷が残っているので、この名がある。『山州名跡志』巻四に「矢立門 当寺の南門を云ふ。軍箭()の痕あるを以って之を称す。古老の云ふ。この門始め北御門に在り。今尚その地を北御門と云ふはこの門独り存し。北の街に立てたるを以って之を称す。応仁の乱後、当寺再建の時移し立つると云々。また一説に平氏門脇宰相教盛の門なりと。按するにこの義、信じ難し」という。『都名所図会』は「中門を矢立て門と呼ぶ。平家の一門、門脇教盛卿(118285)の館の門なりといふ」とする。


矢の根門の矢傷


恵比寿神社

⑥栄西を救った恵比寿(えびす)(恵比寿神社)

建仁寺西門を出て、大和大路通を南へ100メートル下がった所に、恵比寿神を祀った恵比寿神社がある。栄西が宋からの帰途に暴風雨に逢ったが、波間に漂っていた恵比寿神を船中に祀るとたちまち暴風雨が収まって事なきを得たという。帰朝後栄西が建仁寺の鎮守として山内に祀ったが、応仁の乱後、現在地に移転したという。『都名所車』に「栄西禅師入唐のとき、舟中俄かに波風荒く吹いて、舟中の人々おどろき騒ぐ折ふし、禅師少しも騒ぎ給はず海上に向ひて拝し給はば、いずくともなく恵比寿の神体あらはれ給ひ、舟の舳先に立ち給ふと。たちまち波風しずまりければ、それより御すがたをうつしとどめて帰朝の後、当寺の鎮守となし給ふ」と記す。『山州名勝志』は、この恵比寿神は、栄西の祖父からの伝来物で、日頃大切に身に付けて信仰していたものという。

⑦地獄の入口(六道(ろくどう)(ちん)(のう))

 勅使門を出て八坂通を東へ200メートル行き、南へ150メートルほど下がって右折すると、山外塔頭六道珍皇寺がある。地獄の入口は、この寺の本堂の庭にある古い井戸をいう。小野篁(おののたかむら)(80252平安初期の官人。学者・詩人・歌人として名高い)が、ここから閻魔庁に通ったという。この寺は、京の葬地鳥辺野の端にあるため、現世と霊界の接点として、六道詣りの信仰を集めた。『京内まいり』に「小野篁は閻魔王の化身にて、この所より地獄に通ひ給ひし所なりとて、庭に方二間程に芝をふせて残せり。世の人六道の辻と称し、毎年七月九日十日両日、この所へ聖霊を向へに詣でる人群集せり。参詣の人ごとに槙の枝を求め帰る事あり。これは聖霊、槙の葉に乗じて来るとて皆求める事にて侍る。故にこの寺を六道といふ」とある。ちなみに地獄の出口は、この寺から遙かに離れた嵯峨清涼寺の子院薬師寺にあったという(「生の六道」という石碑がある)。六道詣りは現在、毎年八月七日から十日の間に行われている。


六道珍皇寺の地獄の入口(右手の井戸)






































建仁寺とその周辺不思議探訪順路(イメージ)



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