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洛南
壬生寺と島原


            壬生寺本堂
















          旧揚屋の角屋



          旧置屋の輪違屋


アクセス
JR京都駅中央口→市バス26系統(14分)→壬生寺道(スタート)→壬生寺→島原(ゴール)→五条壬生川→市バス73系統(10分)→JR京都駅
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:2時間

壬生寺(みぶでら) 

■江戸期は弁財天参りなどで賑わう 「弁財天二十九ヶ所(まいり)第二十三番」(『京羽二重』)、「洛陽地蔵二十四ヶ寺(めぐり)延命地蔵」、「愛染明王二十六ヶ所廻り第十番(いずれも『都すずめ案内者』上)として賑わった。

■歴史 中京区壬生(なぎ)ノ宮町にある律宗の寺。本尊地蔵菩薩。正暦二年(991)園城寺の快賢僧都が創建。小三井寺、宝幢三昧寺、心浄光院、地蔵院などとも呼ばれた。本尊造立について、『都名所図会』は「(三井寺の快賢大僧都は) 地蔵の尊像彫刻の志願を発し、仏工定朝に命じて一千日の間に造り終る。相好円備してあたかも生身に向うがごとし。また持物の錫杖は落慶の日、本尊の四方霧深くして異香薫じ、音楽幽かに聞こえて聖衆来迎のごとし。午の刻に及んでようやく霧晴たり」と記す(現在の本尊とは別物)。承暦年間(107781)に白河天皇、天承年間(113132)に鳥羽上皇の行幸があり、地蔵院号を賜る。その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により復興。さらに正安二年(1300)円覚上人が融通念仏の教えを無言劇の形(今の壬生大念仏狂言)に仕組んで大いに栄えた。昭和三十七年に火災のため本堂が焼失したが、昭和四十五年に再建。

■見どころ 幕末には、近くに新撰組の屯所があっため、境内には近藤勇像や芹沢鴨ら十一人の新撰組隊士墓塔の壬生(みぶ)(づか)がある。

○島原

■幕府公認の京都で唯一の遊郭 下京区西部にある旧遊郭。江戸初期の寛永十八年(1641)、京都を支配していた所司代板倉重宗は、遊郭六条三筋町の豪華絢爛たる太夫(たゆう)道中を見て大いに怒り、すぐに丹波街道沿いの片田舎の現在地へ移転を命じる。この命令が余りにも急な上、即時実行を迫られたため、ドタバタの大騒ぎが起きた。地域の正式名称は西新屋敷といったが、この騒ぎが島原の乱に似ている(『雍州府志』、『京内まいり』、『都名所図会』)とか、廓の形が島原城に似ていた(『京都坊目誌』)からということで、この地が「島原」と呼ばれるようになった。島原遊郭は幕府公認の京都唯一の遊女街として発展する。廓は東西九九間、南北一二三間。外周に幅一間半の堀を巡らし、堀の内側には土塀が築かれた。廓内は、中央東西に胴()筋があり、その北側東から中之町・中堂寺町・下之町、南側東から上之町・太夫町・揚屋町と六カ町からなる。

■文化サロンとしても隆盛 島原は単なる遊興の里としての遊郭に止まらず、文化サロンとしても名を上げ、関白近衛信尋、本阿弥光悦、灰屋紹益などの錚々(そうそう)たる人物が遊んだ。近衛信尋と灰屋紹益が遊女の吉野太夫(たゆう)の身請けを争った話は、当時の遊女の教養の高さを示すものとして忘れられない。ちなみに吉野太夫は身請けされて灰屋紹益の妻となる。幕末には、西郷隆盛・桂小五郎・坂本龍馬などの尊攘派、近藤勇・芹沢鴨などの佐幕派が入り乱れて遊んだことも記録に残る。島原は、明治三年洛中の遊里支配の特権を失うものの、なお大正、昭和時代を生き延びたが、昭和三十三年公娼制度廃止により遊郭としての歴史を閉じた。

■見どころ 現在、旧揚屋(あげや)角屋(すみや)(現在は角屋もてなしの文化美術館として公開)、旧置屋の輪違屋(わちがいや)、島原大門(おおもん)のほか、歌舞練場跡、大銀杏、島原西門跡、島原住吉神社、幸天満宮、東鴻臚館跡などが残る。


不思議

一夜天神

①一夜天神(壬生寺)

坊城通に面した東門(高麗門)を入った左手に一夜天神堂がある。祭神は菅原道真で、日吉、八幡、熊野、稲荷、祇園、北野の六所明神を合祀。道真が大宰府に左遷される際、壬生の地に親戚を尋ね一夜の名残りを惜しんだという伝説があった。江戸前期、菅神から壬生寺の子院寂静院開基の託願上人に「この地に天神」を祀れとの夢告があったので、上人は社を建立。一夜天神と名付けたという。『拾遺都名所図会』は「一夜天神は壬生寺の門前民家の間にあり。北野一夜松を勧請したまう」という。それで一夜にして境内に松が自生したのだという。今、境内にゆかりの松はない。当社に祈願すると「一夜にして学業を授かる」との御利益があると伝える。

②大念仏堂(壬生寺)

 北門の右手にある。現在の大念仏堂は安政三年(1856)の再建であるが、綱渡りの芸をする「獣台」や鬼が飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ特異な狂言舞台として有名。『山城名所寺社物語』は、「毎年三月十四日より二十四日まで念仏狂言あり。清涼寺千本(釈迦堂)に変らず、里の俗猿の形になりて、堂の軒に綱を張りその上を自由に渡りて色々の曲をなす。年ごとの事なれば壬生の猿と名におへり。これ念仏衆生利益のためなり」と記す。また、『京羽二重織留』は、「毎年壬生地蔵堂にて三月十四日より同二十四日迄念仏あり。近隣の村民あつまりて狂言をなし、洛中参詣のねむりをさます。これ融通念仏の余流なり。正安年中(12991302)に円覚上人この寺に住居し、はじめてこの法事を修したまふと」という。壬生狂言は正しくは「壬生大念仏狂言」といい、「壬生さんのカンデンデン」という愛称で広く庶民に親しまれている。重要文化財。重要無形民俗文化財でもある。


大念仏堂





炮烙(ほうらく)の片(壬生寺)

炮烙とは素焼きの平たい土鍋のこと。二月の節分に当寺に参詣し、厄除けのため炮烙に家族の年齢と性別を書いて奉納する。奉納された夥しい数の炮烙は、春(四月二十一日から二十九日)の壬生狂言で最初に演じられる「炮烙割り」の主役を務める。「炮烙割り」は舞台の上に積み重ねられた炮烙を割るという単純な筋書きであるが、何百枚もの炮烙を次々と叩き割ってゆく有様は壮観だ。割れた炮烙の破片を拾って自宅に持ち帰り、井戸に投げ入れると一年間、井戸に虫がわかないという。今は井戸のある家は少ないので、この風習も廃れてきた。

壬生忠岑(みぶのただみね)の石硯(壬生寺)

壬生寺の什宝の一つ。壬生忠岑の家は、壬生の西、坊城東綾小路の北四条の南にあったようだ(『山州名跡志』)。『雍州府志』に「この寺の北に壬生忠岑宅地の跡有り。今、田と為る。忠岑常に用る所の石硯一面、今、地蔵院に有り」とある。また、『拾遺都名所図会』に「壬生忠岑の硯は壬生寺にあり。石の色紫にして硯の縁の傍らに忠岑の文字あり。当寺の北、田の中より掘り出す」とある。『東寺往還』には、この硯は旅硯というもので、古風なので中華物のようだという記述が見える。他の地誌にも取り上げられており、壬生寺の珍重な什宝であったことを伝えている。壬生忠岑は平安前期の歌人で、三十六歌仙の一人。古今和歌集の撰者の一人であるが、生没年は分からない。

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揚屋の角屋主人であった中川徳右衛門が明治後期に著した『波娜婀娵女(はなあやめ)』に、「島原の七不思議」というものがある。成立時期はいつの頃か分からないが、少なくとも享保以前(1716)といい、俗謡として今も偶には人の口の端に上るという。謡の内容はこうである。

〝京の島原七つの不思議、這入口をば出口といひ、(どう)もないのに道筋(どうすじ)と、下へ行くのを上の町、上へ行くのを下の町、橋もないのに(はし)女郎、(やしろ)もないのに天神様、語りもせぬのに太夫さん〞。以下、もう少し詳しく見てみよう。


島原大門

()入口(いりぐち)をば出口(島原の七不思議)

『波娜婀娵女』は、「這入口をば出口といひとあるは、最初は入るにも出るにも東の門只一つなりしが故なりといふ。今の西の出口は享保十七年(1732)二月に人目を深く忍びて通ふ人のため特に之を開きし也といふ」という。一説には、廓には入口に柳の木を植える風習があり、これを「出口の柳」と称したので這入口を出口という。あるいは、入口が一つなので一度入った者は必ずここに戻って出ていかなければならないからともいう。享保十七年二月に西門が出来たが、ここも入口とはいわずに西の出口といった。(『京の七不思議』)



(どう)(どう)もないのに道筋(どうすじ) (島原の七不思議)

道筋は島原大門から真っ直ぐ西に伸びる廓の主要道路。『波娜婀娵女』に説明がないので、何のことか分からないが、道筋にどう()がないのに道筋というのが不思議といったところか。


⑦下に行くのを上の町(島原の七不思議)

 上()に上の町、下()に下の町があるのが普通。しかし、この廓では、道筋の北に下の町、南に上の町があって逆転している。『波娜婀娵女』は「上の町を下の町とし下の町を上の町としたるは東の出口が丁度この廓の鬼門に当りしより、天神社の神主が之も享保年間に丑寅(うしとら)(北東、鬼門)未申(ひつじさる)(南西)に転じてかくは命名したるなりと言へり」という。


⑧上にいくのを下の町(島原の七不思議)

 上に同じ。


⑨橋もないのに(はし)女郎(じょろう)(島原の七不思議)

廓の娼婦の位は、上から太夫、天神、鹿恋、端女郎の四階級があった。階級ごとに花代に大きな差があり、また着る衣装や持ち物などにも上下の分け隔てが厳しかった。廓には橋がなかったので、最下級の端女郎と橋をかけてこのような言葉が生まれたようだ。前出の吉野太夫は、松江松平家の殿様の後援により僅か十四歳で遊女の最高位である太夫に昇進したというから、度外れた才能の持ち主だ。ちなみに当時の文献によると吉野太夫は、「さわやかで智恵深く、あでやかで香道の名手。宴席での立ち振る舞いが優美で客の心を虜にして大評判となる。その盛名は中国まで聞こえた」とある。


⑩社もないのに天神様(島原の七不思議)

廓には当初天神さんが祀られていなかったので、こうした言葉ができた。後に、揚屋町会所に天神が祀られ、享保十九年(1743)に住吉神社境内に遷座。延享五年(1748)より大宰府天満宮にならい(うそ)(かえ)の神事が営まれるようになった。これは、色紙短冊を持って集まり「鷽を替えん」という興趣ある行事だったが、明治以降に廃れたという。


⑪語りもせぬに太夫さん

浄瑠璃の語り手を太夫というが、遊女の太夫は語るものを持たないのに太夫と呼ぶ不思議。

 


壬生寺・島原不思議探訪順路(イメージ)


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