③炮烙の片(壬生寺)
炮烙とは素焼きの平たい土鍋のこと。二月の節分に当寺に参詣し、厄除けのため炮烙に家族の年齢と性別を書いて奉納する。奉納された夥しい数の炮烙は、春(四月二十一日から二十九日)の壬生狂言で最初に演じられる「炮烙割り」の主役を務める。「炮烙割り」は舞台の上に積み重ねられた炮烙を割るという単純な筋書きであるが、何百枚もの炮烙を次々と叩き割ってゆく有様は壮観だ。割れた炮烙の破片を拾って自宅に持ち帰り、井戸に投げ入れると一年間、井戸に虫がわかないという。今は井戸のある家は少ないので、この風習も廃れてきた。
④壬生忠岑の石硯(壬生寺)
壬生寺の什宝の一つ。壬生忠岑の家は、壬生の西、坊城東綾小路の北四条の南にあったようだ(『山州名跡志』)。『雍州府志』に「この寺の北に壬生忠岑宅地の跡有り。今、田と為る。忠岑常に用る所の石硯一面、今、地蔵院に有り」とある。また、『拾遺都名所図会』に「壬生忠岑の硯は壬生寺にあり。石の色紫にして硯の縁の傍らに忠岑の文字あり。当寺の北、田の中より掘り出す」とある。『東寺往還』には、この硯は旅硯というもので、古風なので中華物のようだという記述が見える。他の地誌にも取り上げられており、壬生寺の珍重な什宝であったことを伝えている。壬生忠岑は平安前期の歌人で、三十六歌仙の一人。古今和歌集の撰者の一人であるが、生没年は分からない。
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揚屋の角屋主人であった中川徳右衛門が明治後期に著した『波娜婀娵女』に、「島原の七不思議」というものがある。成立時期はいつの頃か分からないが、少なくとも享保以前(1716)といい、俗謡として今も偶には人の口の端に上るという。謡の内容はこうである。
〝京の島原七つの不思議、這入口をば出口といひ、何もないのに道筋(どうすじ)と、下へ行くのを上の町、上へ行くのを下の町、橋もないのに端女郎、社もないのに天神様、語りもせぬのに太夫さん〞。以下、もう少し詳しく見てみよう。
⑥何(どう)もないのに道筋 (島原の七不思議)
道筋は島原大門から真っ直ぐ西に伸びる廓の主要道路。『波娜婀娵女』に説明がないので、何のことか分からないが、道筋にどう(堂)がないのに道筋というのが不思議といったところか。
⑦下に行くのを上の町(島原の七不思議)
上(北)に上の町、下(南)に下の町があるのが普通。しかし、この廓では、道筋の北に下の町、南に上の町があって逆転している。『波娜婀娵女』は「上の町を下の町とし下の町を上の町としたるは東の出口が丁度この廓の鬼門に当りしより、天神社の神主が之も享保年間に丑寅(北東、鬼門)を未申(南西)に転じてかくは命名したるなりと言へり」という。
⑧上にいくのを下の町(島原の七不思議)
上に同じ。
⑨橋もないのに端女郎(島原の七不思議)
廓の娼婦の位は、上から太夫、天神、鹿恋、端女郎の四階級があった。階級ごとに花代に大きな差があり、また着る衣装や持ち物などにも上下の分け隔てが厳しかった。廓には橋がなかったので、最下級の端女郎と橋をかけてこのような言葉が生まれたようだ。前出の吉野太夫は、松江松平家の殿様の後援により僅か十四歳で遊女の最高位である太夫に昇進したというから、度外れた才能の持ち主だ。ちなみに当時の文献によると吉野太夫は、「さわやかで智恵深く、あでやかで香道の名手。宴席での立ち振る舞いが優美で客の心を虜にして大評判となる。その盛名は中国まで聞こえた」とある。
⑩社もないのに天神様(島原の七不思議)
廓には当初天神さんが祀られていなかったので、こうした言葉ができた。後に、揚屋町会所に天神が祀られ、享保十九年(1743)に住吉神社境内に遷座。延享五年(1748)より大宰府天満宮にならい鷽替の神事が営まれるようになった。これは、色紙短冊を持って集まり「鷽を替えん」という興趣ある行事だったが、明治以降に廃れたという。
⑪語りもせぬに太夫さん
浄瑠璃の語り手を太夫というが、遊女の太夫は語るものを持たないのに太夫と呼ぶ不思議。
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