ヘッダーイメージ 本文へジャンプ

洛東
八坂神社・円山公園



拝殿と本殿(八坂神社)


アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(14分)→祇園→八坂神社(スタート)→円山公園(ゴール)→祇園
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:2~3時間

○八坂神社

■祇園林の桜 東山区祇園町北側にある。神社の境内及びその周辺をかつては祇園林といい、古くから桜や藤の名所であった。桜については、『堀川之水』巻一に「今洛陽に花の名高き所は東山八坂の郷、祇園(感神院と号す)。玉葉集に「我が宿にちもとの桜花咲かば植え置く人の身も栄えなん」とある。また、謡曲「熊野(ゆや)」にも「花やあらぬ初桜の、祇園林下河原」と詠われるなど、祇園林の桜林は見事であったようで、観桜期には多数の庶民や粋人墨客を集めた。今は、八坂神社の東に接する円山公園の枝垂桜が往時の面影を止めている。

■歴史 祭神は素戔嗚(すさのをの)(みこと)(くし)稲田(いなだ)(ひめの)(みこと)八柱(やつはしらの)御子(みこ)(がみ)。近世以前は、祇園社・祇園感神院・祇園天神社・牛頭天王社などと称し、江戸期の社領は百四十石。明治元年の神仏分離令により元三大師堂、薬師堂、鐘撞堂などの仏教的施設を廃して現社名に改称。創立年代や由緒について諸説があるが、社伝は斉明二年(656)高麗から来た伊利之(いりし)(八坂氏祖)が新羅国牛頭(ごず)山に座す素戔嗚命の神霊を八坂郷に遷し祀り、天智六年(667)感神院と定めたと伝える。

 古くから疫病除けの神として崇敬され、天禄元年(970)より毎年御霊会を行ったとされる。延久四年(1072)後三条天皇の行幸以来、歴代の天皇がたびたび行幸して祈願。「延喜式神名帳」では式外社であったが、「二十二社の制」(二十二註式ともいう。朝廷から特別の崇敬を受けた二十二の神社で十一世紀末に確立)ではその一つに数えられた。明治期には官幣大社となった。毎年七月の祇園祭、大晦日のおけら詣りは著名。

○円山公園

■小川治兵衛が作庭 東山区の西部、東山山麓にある公園。北は知恩院、南は高台寺に接し、長楽寺・東大谷・双林寺・西行庵・芭蕉堂・祇園女御塚などに連なる。もとは祇園感神院や安養寺の境内地であったが、明治初年の神仏分離令や上地令により官有地となり、明治19年公園として開放された。名称は安養寺の山号慈円山に由来する。江戸期には同寺に六坊(正阿弥・連阿弥・也阿弥・左阿弥など)があり、貸座敷などに利用されて文人墨客を集めた。また、南部の双林寺付近は葛が生い茂り、()葛ヶ原(くずがはら)と呼ばれていた。明治22年京都市に移管されたが、数度の火災により荒廃。大正2(1913)当時の著名な造園家小川治兵衛により公園として整備された。昭和6年公園一帯の約1平方キロメートルが国の名勝となる。園内には、京都市円山音楽堂、かつての安養寺六坊の一つの左阿弥、芋棒料理で知られる平野屋、豆腐料理の中村楼、祇園祭の山鉾を納める山鉾館などがある。桜の名所。

不思議

 八坂神社は「祇園さん」ともいい、古くから京都の庶民の崇敬を集めるだけでなく、門前には多数の茶屋が建ち並んで遊興地域としても大いに繁盛してきた。こうした事情から「祇園さん」にちなむ不思議は多く、庶民の口から口へと時代を超えて伝えられてきた。不思議の数が多いので、全部を取り上げるわけにはいかないが、面白いものをいくつか取り上げてみよう。円山公園では、枝垂桜や慈円塔などを取り上げた。


西楼門

①西楼門(八坂神社)

八坂神社の正門は本殿の南にある楼門(南楼門)である。東大路四条に面していて(かご)のような形をした西楼門は、古くは駕門ともいった。この楼門の建築時期は定かではないが、鎌倉時代初期の歌人である藤原俊成の歌に「霧のうちにまず面影にたつるかな西の御門の石のきざはし」(祇園百首)とあり、また、鎌倉時代末期の通史の『百練抄』にも「西大門」と見えるように、古くから存在したようだ。その後応仁の乱で焼失、明応六年(1497)に再建されたのが現在のものだ。左右両側に山廊の付属した優美な朱塗りの楼門は、文化財のとりわけ多い京都でも異彩を放っている。重要文化財。

 なお、西楼門に関しては、目抜き通りの四条通りに面しているのに正門でない、雨垂れで窪まない、蜘蛛の巣が張らないといった七不思議がある。

(えき)神社の鳥居(八坂神社)

蘇民将来(そみんしょうらいの)(みこと)を祀った疫神社は、西楼門を入ってすぐ東にある。普通、神社名は、鳥居の額束(がくづか)に掛けた扁額により表されるが、疫神社では、何故か石製の明神鳥居の額束に直接、神社名が彫られている。こうした表記は珍しい。


疫神社の鳥居(部分)


北向蛭子社

北向(きたむき)蛭子(えびす)(八坂神社)

 疫神社から右手に進み、守札授与所の手前(西南)にある小社。祭神は事代(ことしろ)(ぬし)神。神社、寺院を問わず北向に建てないのが普通なのに、わざわざ北向に建てられている。俗に「えべっさん」と称され、福の神、商売繁盛の神として信仰されている。現社殿は正保三年(1646)の建築で、重要文化財。

④二軒茶屋

正門の石鳥居と楼門の間にあった東西二軒の茶屋をいう。室町時代に神社修繕の余材で作られたという。初めに西側に藤屋ができ、東側に中村屋ができた。藤屋の名の由来は神社一帯が藤の名所であったことにちなむ(『都花月名所』)。藤屋はなくなったが、中村屋は「中村楼」と名を変えて現存、茶屋営業を続けている。『拾遺都名所図会』は、二軒茶屋の由来や賑わい振りについて「社頭の南、大花表(とりい)の内にあり。いにしへは茶店に鑵子(かんす)をかけ湯を(たぎら)し香煎を立てて社参の人の休息所(やすみどころ)とす。その濫觴(はじめ)は年暦久遠(きゆうえん)にして詳らかにしれがたし。いまより百八十年前、慶長(15961615)の頃、東方(ひがしかた)にも建てて東西両翼のごとし。これを二軒茶屋といふ。(中略)この茶店、いまはいにしへに変わりて、つねに菽腐(とうふ)()りて田楽の形とし、この一種を出だして酒飯を()る。このところの風俗(ならはし)なりとて、魚肉を(あがな)ふことを禁ず。これはむかし、比叡山の末寺にして仏攏(ぶつろう)のほとりなるゆえなるが、今も山門の阿闍梨、一夏中(げちゆう)洛辺の神社巡拝したまふとき、西方の茶店に憩ひたまひ、日ごとに昼食(ちゆうじき)あるは、これむかしの遺風ならん。また阿蘭陀人洛東通行のとき、東方の茶店にやすらひけるも流例になりしとぞいふ」と記している。


二軒茶屋の一つ中村楼


祇園造の本殿
⑤祇園造の社殿(八坂神社)

 本殿と拝殿を一つの屋根で覆った神社建築をいう。本殿七間、拝殿二間(右側)の入母屋造りで、母屋の正面に向拝、他の三方向には孫庇を付けるといった複雑な構造になっている。寺院建築に近く、こうした建築様式は類例が少ない。現社殿は承応三年(1654)の建築で重要文化財。


⑥竜穴(八坂神社)

 本殿の下に底知れぬ深い井戸があって竜穴という。鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』は竜宮へ通じているという。一説にこの井戸は、神泉苑・東寺灌頂院の神井とも繋がっているという。井戸の深さについて『都名所図会』は、「続古事談(1219。説話集)に曰く、祇園の宝殿の中には竜穴ありとなん。延久年間(106974)、梨本の座主(天台梶井御門主)その深さをはからんとせられければ、五十丈におよびてなほ底なしとぞ」とある。また、『山城名勝志』には、「保安四年(1123)山法師追捕せられけるに多く宝殿の中に逃げ入りたりける。その中に溝あり、それに落ち入りたりつるとぞいいける」とあり、竜穴の底知れなさ、不気味さを物語っている。


⑦忠盛燈籠(八坂神社)
 本殿の東、大神宮と悪王子社との間、石柵を巡らした中にある。鎌倉末期の古作であるが、笠・火袋・竿は寄せ集めであるという。『平家物語』に平忠盛(平清盛の父)と燈籠との関りを伝える話が遺されており、それにちなんで名づけられたものという。その話の大略はこうである。永久年間(11131117)祇園のあたりに、白河上皇が寵愛した祇園女御が住んでおり、たびたびの行幸があった。頃は五月下旬、見通しの利かない五月雨さえ降って、まことに不気味な夜だった。女御の宿所近くの御堂のそばに、頭は銀の針を磨いたようにきらきら光り、両手に槌と光る物を持っている何者かが現れた。上皇は、これは恐ろしい鬼に違いないと思い、忠盛を召して、あの者を射殺すなり切り殺すなりせよと命じた。忠盛は、この者は狐か狸の類でさして獰猛な者ではなかろうと思い、その者を組み伏せた。その正体は、この御堂の雑用を勤める老法師であった。老法師は、燈籠に火を入れようとして、両手に油壺と火入れを持ち雨にぬれないように頭に小麦の藁を笠のように冠っていたので、火が反射してあたかも鬼のように見えたのである。事が判明すると、上皇は、忠盛の冷静沈着振りを褒め称え、その褒美として祇園女御をとらせたのである。

忠盛燈籠


美御前社と美容水(右手前)

(うつくし)御前社(ごぜんしゃ)(八坂神社)

 本殿の東、悪王子社の北隣にある。『莵芸泥赴』に「美御前は、素戔嗚命のうみ給ふ()(ごり)湍津(たきつ)(いち)杵島(きしま)の三女神をいはいまつるとぞ。うつくしといへる御名故にか疱瘡をこの神にいのりて霊験あり。願成就のかへりもうしに、はしきれ草履を奉る」とあるように、江戸期には疱瘡に霊験があったようだ。今、この社に祀られている祭神を多岐理比売(たぎりひめ)神、多岐津比売(たぎつひめ)神、市杵島比売(いちきしまひめ)神といい、祇園の芸妓・舞妓を初め、美しくなりたい願望を持つ女性の崇敬を集めている。社殿の前に「美容水」という名の清泉がある。

⑨夜泣石(八坂神社)

 境内の東北隅にある日吉社の前にある。夜啼(よなき)(いし)ともいう。木の根元に抱かれて、一見何の変哲もないような石であるが、夜な夜な泣くといわれている。夜泣きの子どもが祈願すると夜泣きが直るという。


夜泣石


祇園枝垂桜

⑩祇園枝垂桜(円山公園)

 八坂神社の東、公園中央部にある。この桜は、もと祇園感神院に属する宝寿院の庭先にあったが、明治初年の神仏分離令により同寺は廃絶し、この名木も伐採されようとした。これを知った明石博高(18391910。明治期の医師。京都の近代化に貢献)が自費で購入して府に寄贈。この桜は、高さ約12メートル、枝の長い見事な枝垂桜で、とりわけライトアップされた妖艶な姿形は「祇園の夜桜」として、人々に親しまれていた。天然記念物にも指定されていたが、惜しくも昭和22年に枯死。現在のものは、昭和24年に植樹された二代目である。

⑪吉水の井(円山公園)

 安養寺山下の鎮守弁財天の左手にある。高さ1メートル足らず、方90センチメートルの石框に「吉水」と彫ってある。傍らに「法然上人閼伽(あか)の水・吉水の井」と記した駒札が立つ。残念ながら清水がこんこんと湧出とはならず、井の底に僅かばかりの水が溜まっているだけである。『都名所図会』は「青蓮院宮御代々の法親王灌頂のとき、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し来臨したまひ、御手づから汲ませらるるといふ」と記す。


吉水の井


⑫慈円塔(円山公園)

 慈鎮和尚塔ともいう。吉水の井の傍らにあり、高さ約3メートルの宝塔である。塔身に多宝・釈迦二仏を浮き彫りにした簡素ながらも優美な塔で、鎌倉時代の作。重要文化財。『京羽二重織留』は「まくずがはらの詠歌はこの所にての事なりし」という。慈円(11551225)は、関白藤原忠通の子で関白九条兼実の弟に当たる。建久三年(1192)初めて天台座主となって以降、座主四度に及んだ。歌人としてもすぐれ、新古今和歌集などを始め勅撰和歌集に二百数十首が選ばれている。また、「愚管抄」の著者として思想史上に大きな足跡を残す。墓は西山善峯寺にある。


功徳(くどく)(すい)(長楽寺)

 長楽寺本堂の東北隅にある。『山州名跡志』は、「慈鎮和尚を師として出家した隆寛律師は、後に法然の弟子となって専修念仏の行者となる。八十歳で入寂する際、弟子を集めて臨終の念仏を修し、開闢発願の鐘を鳴らした時、この池水より忽然として青蓮花が生じた。その故、この池水を念仏功徳水と号する」という。『都名所図会』にも同様の記述がある。寺では、この水を「平安の滝-八功徳水」と呼び、法然の高弟隆寛律師や建礼門院が修行した行場であるという。滝の石組には、弁財天像など八体の石仏と両側に無数の石仏が祀られており、荘厳な赴きを今に止めている。八功徳水の八の意味は、甘い・冷たい・やわらかい・軽い・清らか・無臭・飲時不損喉・飲已不傷腹という。この滝水は、かなり痩せたそうだが、今なお飲用に適する清水を受け皿の樽に落としている。


功徳水の滝の石組


⑭祇園女御塚

 『平家物語』で著名な祇園女御の塚は、円山音楽堂の東、双林寺の傍らにあったという。『京羽二重織留』に「東山双林寺の前にあり。今その所田畑となる。農民地を掘るときは、今に瓦石並びにいにしへ用いる所の假山の石時々出侍るなり」と記している。『都名所図会』では「祇園女御の旧跡は双林寺前の北にあり(東西八間、南北五間)。この地を耕しせんとすれば祟りありとぞ」という。今は、八坂神社南鳥居のすぐ南にある祇園寺の入口に祇園女御供養塔が立つ。



コラムその8 灯籠の話
灯籠は灯火を点ずる用具で、神前・仏前に供されるもの。元来は、僧房の灯火具から発達したもので、中国、朝鮮半島を経てインドから伝来した。伝来時は仏前を荘厳にする道具として用いられたが、神仏習合により神社へも献納されるようになった。奈良時代末頃から宮中、続いて貴族の邸宅にも用いられるようになった。室町時代以降になると、庭園の景物となり、茶道の隆盛とともに数寄をこらしたものが多数現れた。灯籠は「釣灯籠」と「台灯籠」に大別され、木・石・鉄・青銅等が用いられている。石灯籠は花崗岩のものが多く、基礎(地輪)・竿・受台(中台)・火袋・笠・宝珠の六部からなる。石灯籠には平等院型、太秦型、春日型、蓮華寺型など多数のタイプがある。

八坂神社・円山公園不思議探訪順路(イメージ)


フッターイメージ