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洛東
知恩院


御影堂(国宝)


アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(15分)→知恩院前→知恩院(スタート、ゴール)
歩行距離等
●歩行距離:2キロ
●所要時間:2時間

■江戸期の知恩院 『雍州府志』に「この寺、元、山門慈恵僧正の創する所にして、法然上人、これを再興す。浄土宗四箇の本寺の随一なり。東山と号す。始め大谷寺と称し、また、吉水の院という。いにしへ、この院、山上にあり。今の勢至堂、これなり。慶長年中(15961615)、今の所に移す。その時、満誉僧正住職たり。寺産千七百石有り。山上に開山、法然上人の塔あり。毎年、正月十九日より二十五日に至りて、法然忌を修す。(以下略)」とある。

■歴史 東山区林下町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山大谷寺知恩教院。本尊は法然上人御影(みえい)像。安元元年(1175)法然上人が東山大谷の吉水に建てた坊舎に始まる。文暦元年(1234)法然上人の廟堂を源智が復興して寺基を整えた。百万遍知恩寺と本山の地位を争ったが、大永三年(1523)正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)によって浄土宗の総本山となる。その後豊臣秀吉や徳川家康らの援助で近世初頭には壮大な伽藍を形成。特に徳川氏は、江戸期を通じて知恩院を外護。また、皇室とも結びつきを強め、元和五年(1619)後陽成天皇の皇子が良純法親王として初代の門跡となって以降、宮門跡寺院として隆盛した。

■見どころ 法然上人の御尊像(御影)を安置する御影堂(大殿(だいでん))は、徳川家光により寛永十六年(1639)再建されたもので国宝。勢至堂(旧御影堂)は、山内では最も古い建築で重要文化財。大鐘楼は延宝六年(1678)の建立で、重さ約70トンの日本最大の銅鐘を吊る。寛永年間(162444)の方丈再建時に造られた庭園は、雄大豪華なもので(ぎょく)淵坊(えんぼう)の作とされる。「法然上人絵伝」は、法然上人の伝記や弟子たちの行跡を分かりやすく表したもので、伏見天皇・(しょう)蓮宮(れんのみや)(そん)(えん)法親王らの詞書(ことばがき)を添え、絵師の土佐吉光らによる大和絵の絵巻で国宝。このほか、寺宝として、「(はや)来迎(らいごう)」という異名を持つ「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(国宝)など多数。

不思議
 知恩院では、「知恩院の七不思議」として、①鶯張りの廊下、②白木の棺、③忘れ傘、④抜け雀、⑤三方正面真向の猫、⑥大杓子、⑦瓜生石の七つを紹介している。これらの不思議は、項目の添え書きに示したように、仏の教えを物に例えて具体的に説いたものという。本書では、これらの七不思議に加え、面白いものをいくつか紹介しておこう。なお、白木の棺、抜け雀、三方正面真向の猫、大杓子は残念ながら非公開部分にある。


瓜生石

瓜生(うりゅう)(いし)/はげみ(七不思議)

 黒門前の道路中央にあり、石柵で囲った大きな石をいう。知恩院ができる前からある石で、八坂神社の牛頭(ごず)天王(てんのう)が降臨して一夜で瓜が生えて実ったとか、二条城へ続く抜け道の出入り口であるとも伝える。また、この石は地軸から生えているとも伝え、節分に自分の年齢よりも一つ多く小石を供えるといった風習があったようだ。江戸期には、この石は瓜生(くはしよう)(せき)と呼ばれた著名な石。その由来について各地誌が競って取り上げているので、その幾つかを紹介しておこう。

・『名所都鳥』 (かね)盤石(とこいし)の東に有。相つたふ。牛頭天王この石の上に來現し給ふ。これによつて社を今の祇園に建。はじめ東山瓜生山に現じ。かさねて又この所に現ず。この故に名づくるか。この石もまた瓜生山にありしをこの処に移すか。これを世に慈鎮石といふはあやまれるか。瓜生(くわしよう)和尚(くわしよう)と和語ちかき故にあやまるなるべし。

・『山州名跡志』 この石に説々有りといへども信用し難し。故にこれを略す。当山の住僧古老の説に一義あり。往古この石の下より一夜に瓜草生ゆ。その蔓程なく石面にはびこれり。依て見聞の人稀有なりとす。その後、花を生じて胡瓜を生ず。その瓜に牛頭天王の文字有りとも又は感神院の字也とも。これに依てこの石霊石なることを(とおとん)で。不浄をはらひ。又石上にのぼることを戒む。終にその瓜を取て粟田の天王の摂社に納む。この所元より青蓮院の敷地の故なり。この故に今に至りて彼神社に胡瓜の矛有て祭日是をわたす也。

・『都名所図会』 瓜生石は黒門の前にあり。むかしこの石のもとより胡瓜の蔓生じて瓜を結ぶ。その瓜に「牛頭天王」の文字あり。これによつて粟田天王の社内に納む。

②小鍛冶の井

 三門石段下の右手にある井をいう。『都花月名所』は名清水と記す。『都名所図会』の知恩院の絵図にも「小かぢ井」の名が見える。『拾遺都名所図会』に「鉄盤石は山門の下にあり。伝へ云ふ。三条小鍛冶宗近、鉄盤にもちひたる石なりとぞ。この石、いにしへは子院霊雲院の外、林中にあり。このところに刃の水あるによつて貞享元年(1684)十月このところに移す」とあるので、「(やいば)の水」とも呼ばれていたようだ。


小鍛冶の井

山門

③白木の棺/不惜身命(七不思議)

元和元年(1621)徳川秀忠が建てた三門は、瓦葺、五間三戸の二重門で木造の門としては世界最大の規模。知恩院のシンボル的存在である(国宝)。この楼上に納められている白木の棺の中には、この門を造った棟梁五味金右衛門夫婦の木造坐像が安置されている。棟梁は命がけで三門を造ったが、予算超過の責任を取って夫婦ともども自刃したという。

④無銘塔
 阿弥陀堂の東北隅にある五輪の石塔婆をいう。高さ約3メートル。無銘で誰の墓か分からなかったので、異説が多かった。『山州名跡志』に「知恩院玄関門前生垣内に有。無銘の五輪塔なり。この塔に寄せて異説(はなはだ)多し。或云。鎌倉極楽寺の僧忍性の塔にして、五条寺町の太子堂より毎年盆供を勤むと。予この事を貞享五年(1688)二月に太子堂の比丘に尋るにこの事なきなり。又の説自然居士の塔と。無銘の故に或説(わくせつ)をなす。無銘のこと最も(いわれ)あり」とある。また、『拾遺都名所図会』に「阿弥陀堂の北にあり。五輪の石塔婆。高さ九尺五寸、地輪方三尺五寸。これ何人のために建つるといふことを知らず。『扶桑略記』に曰く〝上東門院(藤原彰子、9881074)を大谷に葬る〞とあれば、この陵ならんか。また一説に曰く〝これいまの五条太子堂の開山、相州鎌倉極楽寺仁性(にんしょう)(12171303)の墓なり。元太子堂、当山にあり。近世までかの忌月には太子堂より衆僧来つて法会を修す〞とぞ。いまは絶えぬ。無銘のゆへに或説をなす。後考あるべし」とあるように、定説が定まらない。

無銘塔

忘れ傘

⑤忘れ傘/知恩・報恩(七不思議)

 御影堂正面の軒裏、地上十数メートルのところに、骨ばかりとなった傘が遺されている。伝説の名工左甚五郎が魔除けのために置いたものという。また、一説には、この御影堂を建立する際、その辺りに棲んでいた白狐が棲家を奪われるのを恨んで童子に化けて悪さを企んでいたが、第三十二代の満誉上人の法話を聞いて改心し、御影堂守護のため軒裏に傘を置いて神通力を示したという。上人はいたく感心し、この白狐を勢至堂裏の総墓地の北端に(ぬれ)(がみ)明神として祀ったという。

⑥鴬張りの廊下/仏の誓い(七不思議)

御影堂裏から集会堂、大方丈、小方丈に至る長さ550メートルもの廊下は、歩くと鶯の鳴き声に似た音が出る。静かに歩こうとすればするほど音がでるので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を荷っている。また、鶯の泣き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいう。江戸期には、小方丈に知恩院宮の御成りの間があったので、警報装置説は大いに頷けよう。


鶯張りの廊下


⑦三方正面真向の猫/親の心(七不思議)

 大方丈廊下の杉戸に描かれている狩野信政(狩野探幽の養子)筆の猫の親子絵をいう。どちらからみても、見る人を正面から睨んでいるように見える。子猫を(かば)っているのである。

⑧大杓子/仏のすくい(七不思議)

大方丈入口廊下の梁に置かれた大きな杓子をいう。長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。真田幸村の家臣三好清海入道が大阪夏の陣の時に、この杓子を持って暴れまわったとか、数千の兵に飯を振舞ったと伝える。

⑨抜け雀/心をみがく(七不思議)

 大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたもの。万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりに上手に描かれていたので、雀が生命を得て飛び去ったという。


賀茂影向石

⑩賀茂明神(よう)(ごう)(せき)・紫雲水

 賀茂明神影向石は、勢至堂の東北隅にある。石柵で囲っており、方1メートル大きさである。紫雲石ともいったようだ。何となく瓜生石に似ているのがほほえましい。『拾遺都名所図会』に「法然上人御臨終のとき、加茂太神この石上に降臨したまふ」とある。
 紫雲水も勢至堂の東北隅にある。石柵で囲ってあり、縦1.5メートル、横2メートルほどの浅い池だが、残念なことに涸れている。『山州名跡志』に「勢至堂東の傍にあり。法然上人入寂の時紫雲この水に移る」とある。また、『都名所図会』にも「円光大師(法然)入寂のとき(しよう)(じゆ)来迎し紫雲水面に(あらわ)異香(いきよう)水気に(のこ)れりといふ」とある。『京羽二重』は、「紫雲水」を京の名水の一つに挙げている。


コラムその7 五輪塔の話
密教では、物質構成の要素として地輪・水輪・火輪・風輪・空輪の五大があり、それを塔に擬したものを五輪塔という。大日如来を具象化したものである。地輪は方形、水輪は円形、火輪は三角形、風輪は半月形、空輪は宝珠形で表す。平安中期から供養塔や墓標として用いられた。石造が多いが、金属、木、泥などでも造られた。現在でも板塔婆の上部にも五輪形が刻まれており、五大五輪を意味する梵字が書かれている。

知恩院不思議探訪順路(イメージ)

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