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洛東
清水寺

清水の舞台

アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(10分)→五条坂→清水寺→五条坂
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:2~3時間

■洛陽第一の名所 『雍州府志』に「凡そ、当山四時の風景、筆舌の及ぶ所に非ず。故に、遊人、常に絡繹、跡を絶たず。特に桜花の爛漫、瀑泉の清冷、これ洛陽の一奇観にして世人の口実なり」とあるように、絶景の地として四季を通じ多数の遊客を集めた。また、『都名所図会』に「当山は昔より桜の名所にして春も弥生の頃は花咲き一入(ひとしお)かをりて、さながら雲と見れば雪と散りて(ひょう)(かく)のこころを動かし、盃の数そひて歌よみ詩つくりて、たはめる枝々に短尺(たんじやく)むすびつけしも春色の風流なり」と記されているように、洛陽第一の名所であった。

■歴史 北法相宗の総本山。山号は音羽山。世界文化遺産。本尊は十一面千手観音。「清水寺縁起絵巻」によると、鹿狩りにきた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758811。平安初期の武将。蝦夷との戦いで功をあげ、797年征夷大将軍)がこの地で修業中の僧延鎮に殺生を戒められ、延暦十八年(798)夫人とともに千手観音を造り、一堂を建てたのが始まりと伝える。弘仁元年(810)嵯峨天皇から「北観音寺」の宸筆を賜って鎮護国家の道場となった。法相宗の寺院として興福寺に属したため、延暦寺との抗争でたびたび焼亡した。北法相宗に改宗したのは昭和四十年(1965)

■見どころ 懸崖造りの本堂は寛永十年(1633)、東福門院和子の発願、徳川家光の寄進で再建。欄干の擬宝珠に寛永十年の銘がある。国宝。「清水の舞台」として名高い。舞台の高さは約13メートル。西国三十三所観音霊場の第十六番札所でもある。仁王門、馬駐(うまとどめ)、鐘楼、西門、三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂、轟門、子安塔などは重要文化財。

江戸期の清水寺(都名所図会)

清水寺の不思議
 今も昔も、庶民にこよなく愛され続けてきた清水寺にまつわる不思議は数多い。井上頼寿の『京の七不思議』は二十六不思議があるとする。『京の七不思議』そのままではないが、本書も二十六の不思議を紹介している。不思議とは直接の関係はないが、地主神社の傍らに将軍塚への登り口がある。将軍塚には大日堂があり、その庭園から見下ろす京都市街の眺望は、素晴らしいの一言につきる。往復しても1時間程度なので、時間があれば登っておきたい。


三年坂

①三年坂

清水坂経書堂(きょうかくどう)の左手から北に下る長さ100メートル余りの急な石畳の坂道をいう。この坂の由来については、清水寺が大同二年(807)にでき、この坂は翌大同三年にできたので三年坂というとか、子安塔に続く坂であるので(さん)寧坂(ねいざか)だとかいう。古くから、三年坂で転ぶと三年以内に死ぬという伝説があった。『山城名所寺社物語』に「世のならはしに、この坂にてころぶ人は三年の内に死するという。大きなる誤りなり。さんぬる頃、七十ばかりの禅門転びしかば、往来の人あわれみて、いとしや三年の内に死するてあらんといへばこの老人にっこりと笑ひ、明日をも知らぬ命なるにまづ二年は心やすしといへり」として、伝説を笑い飛ばしている。

重軽石(おもかるいし)

 清水坂経書堂本堂にある。清水寺に参詣する人は、この石を持ち上げて所願成就を祈った。

重軽石

待ち人地蔵

③待ち人地蔵(首振地蔵)

 仁王門の左手前の地蔵院善光寺堂前にある。石造りで高さ45センチメートルほど。赤いへんてこな帽子を被り、衣を着た奇妙なお地蔵さん。祇園の幇間の鳥羽八が生前に造って奉納したと伝わる。その正体は、丁髷(ちょんまげ)姿で左手に扇子を持った町人風の人物。それがいつの間にかお地蔵さんになった。このお地蔵さんの首は、右に左にごろごろと自由に回転するので、逢いたい人の住む方向に首を向け祈願すると願いが叶うという。

馬駐(うまとどめ)逆環(さかさかん)

 仁王門左手下にある切妻造瓦葺の建物を馬駐という。往古、馬に乗って拝観に来た武家などが、この馬駐に馬を繋いだ。この馬駐は五頭の馬を収容することが可能であるが、五つある手綱を繋ぐ鉄製の環(馬留め)のうち、中央のものだけが何故か逆さに取り付けられている。この馬駐は清水寺名物として古来から有名で、謡曲「熊野(ゆや)」にも語られている。現在の建物は室町時代後期に再建されたもので、重要文化財。(現在解体修理中) 


馬駐

狛犬(向って左)

狛犬(向って右)

阿形(あぎょう)の狛犬

 仁王門の石段下の両脇にある。寺院に狛犬があるのも珍しいが、ここの狛犬はさらに変わっている。狛犬は災厄を除くものとして普通、向って左側に口を開いた阿形の獅子と向って右側に口を結んだ吽形(うんぎょう)の狛犬とで構成される。ここのものは両方とも狛犬で、しかも両方とも阿形というのが珍しい。東大寺南大門裏の狛犬がモデル。向って左が音羽婦人会、右が清水寺普門会の寄進。

⑥仁王門のカンカン(ぬき)

 仁王門の向って右側の貫を爪で掻くと、反対側の木口でその音がよく聞こえるという。この不思議を知っている人が木口を爪で掻くので、両方の木口が爪跡で大きく窪んでいる。


仁王門のカンカン貫


六本足の鐘楼

⑦六本足の鐘楼

 仁王門をくぐり石段を登った左手にある。切妻造り本瓦葺の鐘楼で、慶長十二年(1607)の建立。普通、鐘楼の柱は4本であるが、なぜかこの鐘楼の柱は6本ある。それが不思議という。(かえる)(また)には桃山後期の華麗な装飾彫刻がついており、見応えがある。銅鐘も文明十年(1478)大工国久作の銘がある立派なもの。




鹿間(しかま)(づか)

鐘楼の北側、樹木の生い茂った付近という。寺伝では、坂上田村麿は懐妊した夫人の薬を得るため身籠った鹿を狩ったところ、僧延鎮に殺生を諌められたので、その鹿をここに埋葬したと伝える。『都名所図会』に「坂上田村丸仏殿を建てんと思ふに、この地険阻にして尺地もなかりければ如何と心憂かりしに、その夜多くの鹿きたりてやすらかに平地になせしかば、仏殿を造りて大悲の像を安置し奉れり」とある。


鹿間塚

岸駒の石灯籠

(がん)()の石灯籠

 仁王門をくぐり石段を登った右方約30メートルにある。礎石の上に火袋を穿った自然石を置いた簡素なもの。普通の石灯籠とは随分趣を異にしているので、これが石灯籠かと思ってしまう。自然石の表面に目を凝らすと虎の絵が彫られているのが分かる。この石灯籠は江戸後期に有栖川家に仕えた画家岸駒が寄進したもの。この虎は、どこから見ても真正面から睨んでいるように見えるので、「八方睨みの虎」という。

(かげ)(きよ)爪形(つまかた)観音(かんのん)

胎内めぐりで有名な(ずい)求堂(くどう)の右手前にある高さ160センチメートルの石灯籠の火袋の中に安置されている。線彫の小さな観音像で、源氏に捕らえられた平家の武将平景清(?1196平家の侍大将。1195年源頼朝に降り、翌年断食して死んだという。『平家物語』、謡曲、能などに悲劇的な英雄として語られている)が入獄していたとき、爪で観音を彫って信仰する清水寺に奉納したものと伝わる。『都名所図会』に「爪形観音は、悪七兵衛景清、爪をもつて千手観音を石面に彫りしなり。景清守り本尊も傍らの庵室にあり」とある。


景清の爪形観音(中央)

千体石仏群
⑪千体石仏群
 随求堂の左手にある鎮守堂の春日社の裏にある色とりどりの前垂れを付けた千体の石仏群は壮観だ。中央正面の千手観音像が中尊。明治維新の廃仏毀釈運動で町中のお地蔵さんが破却されようとした時、信仰心厚い京都市民が清水寺に持ち込んだものを集めて供養したもの。鎌倉時代の石仏もあるようだ。

⑫三重塔の龍の鬼瓦

 三重塔は江戸初期の寛永九年(1632)に再建されたもの。和様の復古様式で高さ30メートルに及ぶ我が国でも最大級の本瓦葺三間三重の塔。この塔の初層の屋根の四隅には、魔除けため鬼瓦が葺かれているが、東南隅の鬼瓦のみ龍になっている。龍は仏教の守護神で、淵に住んで雨を呼ぶといわれる。


龍の鬼瓦

轟橋

⑬轟(とどろき)(ばし)

本堂前の中門(轟門)の前にある。石造りの小さな橋で、昔は下に轟川という小さな川が流れていたというが、今はその痕跡もない。それで、水がないのに橋が架かっているのが不思議だという。『京羽二重』はこの橋を京の名橋とし、「東山清水寺の麓三年坂の下に渡しぬる橋也。いにしへは知らず今は小石ばし也」という。

この橋は、一山の口を象徴しており、真ん中の板は舌、両横の石の欄干は歯を意味するという。それで歯痛の人は、この橋を渡ってはいけないという(『京の七不思議』)。今はこうした信仰・伝承を知る人も少ない。

(ふくろう)手水(ちょうず)(ばち)

轟橋の左手にある。手水鉢の足元に梟の浮き彫りが見える(「清水寺石鉢」と記された裏側)。竜の口から吐き出しているのが「梟の水」。昔から名水として著名で、『京羽二重』に「清水寺回廊の前手洗水也。石鉢の台にふくろうを(ほり)付けたり」とある。『名所都鳥』は「鴟鴞(ふくろうの)(みず)」といい、「清水の堂に入る橋をとどろきの橋といふ。その手前の左の方にある手水を梟の水と云。ふたつの鳥を切付たる石なれば名づく。むかしよりありしは。利休とりよせて、茶寮の手水鉢として。今あるは、後にあらたにつくりたるもの也」と記す。『都名所図会』にも「梟の水は中門の西にあり。霊泉にして地中より湧き出づること寒暑に絶えず」と絶賛している。この水で口を(そそ)ぐと、歯痛が治るという信仰がある。


梟の手水鉢




轟門

⑮轟門

 門には普通、扉があるが、この門には扉がないので不思議という。

⑯景清の足型石

朝倉堂の右横手にある。自然石の切断面に彫られた長さ一尺八寸(50センチメートル)もある大きな足形。怪力無双の平景清のものという。もとは仏足石で、いつの間にか仏足石であることを示す足裏の魚紋や雲形が削り取られて、景清の足形石と呼ばれるようになった。


景清の足型石

弁慶の鉄の錫杖と下駄
弁慶の鉄の錫杖と下駄

本堂入口左手にある。大錫杖は長さ2.6メートル、重さ96キログラム。小錫杖は長さ1.76メートル、重さ17キログラム。下駄は一足12 キログラム。音羽の滝で修業した行者が満願成就のお礼に納めたというが、真相は不明である。こんな大きな錫杖や下駄は、常人ではとても持てないし、履けもしないので弁慶のものということになった。

⑱霊験あらたかな十一面千手観音

『清水寺縁起』によると、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は延暦十七年(794)、観音の変化身である地蔵菩薩と毘沙門天の加護を受けて東征から凱旋。その報恩のため、田村麻呂は延鎮と合力して金色の十一面千手観音像を造立、本堂に安置した(造立当時の立像はその後焼亡し、現在のものは鎌倉期の再造)。爾来、霊験あらたかな十一面千手観音像が鎮座する清水寺は、『源氏物語』、『枕草子』、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『平家物語』などの古典文学を始め、謡曲や狂言などにも採りあげられた。
 本尊の十一面千手観音像(像高173)は、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天両像とともに、本堂内陣の厨子内に奉祀されている。三十三年に一回しか開帳されない秘仏のため、厨子の前には本尊を一回り小さくした十一面千手観音像が「お前立ち」(像高138)として祀られている。本尊は、他の十一面千手観音像と同様、四十二臂(ひじ)であるが、それらに加えて二臂を頭上にかかげ、その掌に小さな釈迦如来の化仏を戴く。このように特異な形をしているため、「清水型」千手観音と呼ばれる。


十一面千手観音御前立

清水の舞台

清水の舞台から飛び下りる

必死の決意をして思い切ったことをすることのたとえとして使われる言葉。舞台から下の地面まで13メートルもあり、飛び下りたらとても無事では済まされない。飛び下りの起源は平安時代に遡るようで、補陀洛浄土を欣求して舞台から投身した観音行者が少なくないようだ。江戸中期の歌舞伎狂言「清玄・桜姫」で、前途を悲観した桜姫が清水の舞台から傘を開いて飛び下りたのをみた大衆はショックを受ける。

もともと観音に願をかけて結願の日に飛び下りて怪我がなければ所願成就、死んだら成仏できるという信仰があったから、舞台から飛び下りる人が続出した。成就院の記録によれば元禄以降、毎年数人が飛び下りたという(生存率50パーセント未満)。明治五年になって漸く飛び下りが禁止された。

⑳堂々めぐりの筋痕

本堂裳階の連子窓下の長押には、筋状の痕跡が刻まれている。これは昔お百度やお千度の堂々めぐりをした数取り札の摺り跡だ。


堂々めぐりの筋痕

本殿に向かい合う拝殿

21本殿に向かい合う拝殿(地主神社)

地主神社は江戸期末まで清水寺の鎮守社で地主権現と呼ばれた。祭神は大国主命・素戔嗚命など。近年は良縁の神として信仰されている。本殿と拝殿の配置が変わっている。普通の神社建築では、本殿の前に拝殿があるが、本社の場合、本殿と拝殿が向かい合って建築されており、本殿拝礼時には拝殿にお尻を向けるという格好になる。

拝殿の天井絵は狩野元信の筆で龍が描かれているが、夜になると水を飲みに外に出るというので、「水呑み龍」という名がある。

22恋占い石

縁結びの地主神社(祭神は大国主命・素戔嗚命など)の前、約15メートルの間隔で置かれた東西二個の石をいう。片方の石から目を閉じてもう一方の石まで行きつけば幸いが来るという。盲石ともいった。『名所都鳥』に「盲目(めくら)は清水寺地主権現の前也。この石左右に二つあり。この石より右に目をふさぎてあゆみよるに、自然とゆきあたらずといへり。ふしぎかな不思義ならざるか」という。今は「恋占いの石」として、若い男女の参詣が引きもきらない。


恋占い石

地主桜

23地主桜(地主神社)

 拝殿の右奥にある。古来有名な桜で『都花月名所』に「地主の桜はむかしより世に名高し」とある。豊臣秀吉はこの見事な桜を讃え、「車返の桜」と名付けたという。明治維新までは、毎年花期に一枝を宮中に献上したという。謡曲「田村」や「熊野(ゆや)」で「地主権現の花」と詠われている。

24濡れ手観音

 奥の院の東裏にある小さな石造りの観音立像。音羽の滝の水源の真上に湧き出る「金色(こんじき)(すい)」を汲んでこの観音様にかけると、かけた人の煩悩や罪障が洗い流されるという。言い換えると自分自身で厳しい滝行をする代わりに観音様に身代わりになってもらうわけ。台石の正面には「観世水」、向かって右側面に「享保元丙申(1716)十一月地蔵講中」との銘がある。


濡れ手観音

音羽の滝

25音羽滝(音羽ノ滝)

本堂の東から百段ほどの石段を降りたところにある。古来有名な滝で、三つの樋から四季増減なく清冽な水が落ちている。流れ落ちる水を「金色水」とか「延命水」ともいった。水源は背後の音羽山。江戸期には、乙輪滝、音羽瀑布などともいった。滝の上に小社があり、『洛陽名所集』は()(おう)姫を祀ると伝える(寺では、倶利伽羅峠竜王を祀り「音羽滝不動明王」と称する)。『都林泉名勝図会』は「四時増減なく清冽にして所謂五名水のその一と拾芥抄にあり」という。また『都名所車』に「諸事願の事あれば滝詣でとて、この滝へ降りて奥の院と本堂へ参ること三十三度なり」とあるように、本尊の観音様を念じて一日に三十三度、この滝に打たれて身を清める人がいた。御利益のあるこの滝水を桶に汲んで持ち帰る女たちも多かったという。

26子安塔(泰産寺)

本堂東の石段を降りた音羽の滝から南へ200メートルほど坂を登ったところにある。桧皮葺の三重塔で、今は剥げ落ちて分からないが、元は総丹塗りの美しい塔であった。寺伝では、光明皇后が本尊の千手観音に祈願して孝謙天皇を出産し、その報恩のために建てられたという。『京雀』・『山城名勝志』・『都名所車』は、坂上田村麻呂の(むすめ)春子(嵯峨天皇女御)懐妊のとき、御産平安の祈願が実って葛井親王を生んだので、そのお礼として子安塔を建立したという。現在の塔は江戸初期の再建(1633)と伝える。安産祈願に御利益があるという。


子安塔

コラムその9 狛犬の話
狛犬は、主として神社の前にその守護と荘厳化のために置かれる左右一対の獣形である。インドに起源を有し、飛鳥時代に伝来したものという。伝来時は、門扉・御簾・几帳などの鎮子(おもし)であり、魔除けとしても用いられた。その後、神殿・神域の守護を目的として神社の殿舎の内外に置かれるようになり、荘厳化の役割も荷った。当初、狛犬の素材は木・石・青銅・鉄・陶などで色彩も施されていたようだが、次第に石造のものが多くなった

コラムその10 景清の話
平景清(?1196)は平安末期・鎌倉初期の武将。上総介藤原忠清の子。悪七兵衛景清という異名を持つ平家の侍大将。治承四年(1180)源頼政との戦い、源義仲との合戦、一ノ谷、壇ノ浦の戦いなどを生き延びたが、建久六年(1195)源頼朝に降伏。翌年断食して死んだという。謡曲「景清」は、盲目となった景清が日向国で乞食になっているところへ、娘の人丸が鎌倉からはるばる訪ねてくる。景清は初め、落ちぶれた姿を娘に見せたくない一心で会見をしぶるが、里人のとりなしで娘と会い、自らの武勇伝を語って別れ行く。(こう)(わか)(まい)の「景清」は、三十七度まで頼朝の命をねらうが、頼朝は景清を許して所領を与えた。景清は復讐の念を絶つため自ら両眼をえぐり、日向国に下る当日、清水寺に参詣すると両眼が元に戻ったという話である。後に近松門左衛門がこの話に基づいて「出世景清」を書いた。

コラムその11 手水鉢の話
手水鉢は、水を湛えた器。神社や寺院の参拝者が神仏を拝する前に、口を漱ぎ手を洗うために使用するもので、社前や堂前に設けられている。手水鉢は古くは檜桶であったが、後に石・陶・鉄・青銅などが用いられた。一般に手水鉢には手水舎という覆屋が設けられる。手水鉢は、方形のものが多いが、円形・星形・棗形・袈裟形・八雲形・瓜実形・富士形・唐船形・蹲踞形・自然石形と様々なものがある。茶室の露地の重要な景物にもなっている。

不思議探訪順路図(イメージ)

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