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洛中
御池通とその周辺

御池通のシンボル京都市役所


アクセス
JR京都駅中央口→市バス205系統→荒神口(22分)→護浄院(清荒神、スタート)→御手洗水(ゴール)→地下鉄四条駅→JR京都駅(4分)
歩行距離等
●歩行距離:約15キロ
●所要時間:4~5時間

【御池通】

 平安京の三条坊門小路にあたる。東は川端通から西は天神川通(葛野中通)に至る。途中、JR二条駅で中断。全長約4.9キロ。七月十七日の祇園祭山鉾巡行、十月二十二日の時代祭行列が通る京都のハレの道路である。今の御池通は、第二次世界大戦中の強制疎開や戦後の拡張により幅50メートルの立派な道路になったが、平安京の三条坊門小路は幅4丈であった。御池通の名の由来には諸説がある。

○神泉苑にちなむとする説

・此通の号は神泉苑の前通ゆへ(かく)よぶ(『京町鑑』)

・神泉苑此街西にあるを以て御池と称す(『京都坊目誌』)

○二条殿の池にちなむとする説

・室町の東小路の南押小路殿とも二条殿ともいへり。普光園院の関白の御所有て池嶋など見所有て作りて住給へり。御池の十景とてあり。水明楼 梅香軒 御榻閣(ぎょとうかく) 蔵春閣 政平水 古霊泉 緑楊橋 観旧台 洗景亭 龍浴池 是なり(『莵芸泥赴』)

・はじめ二条殿の池あり(『雍州府志』)

・此通両替町人家の裏に御池の旧跡なりとて今僅かに残り池中に社等有とぞ(『京町鑑』)

・此街烏丸に藤原良実二条家の祖先の別邸あり。今二条殿町と云ふ此邸内の池水を龍躍と号す。極めて清涼なり。此水三条坊門に注ぐ。之より御池と称す(『京都坊目誌』)

○御所八幡宮にちなむとする説

・通高倉東入町に御所八幡宮の社有ゆへにかく呼べり(『京町鑑』)
江戸期の神泉苑(都名所図会)



不思議

①日本最初の清荒神(きよしこうじん)(護浄院)

 護浄院は、上京区荒神口通寺町東入荒神町にある天台宗の寺。常施無畏寺(じょうせむいじ)とも号し、通称清荒神で知られる。寺伝によると、宝亀二年(771)光仁天皇の開成皇子が摂津国勝尾山清師で修行中、荒神が八面八臂の鬼神となって出現。皇子がその荒神を自ら模刻して祀ったのに始まる。明徳元年(1390)後小松天皇の勅により、洛中高辻堀川へ移転。その後、北闕を守護するため後陽成天皇の勅により、現在地に移転するとともに、常施無畏寺の寺号を賜った。さらに、東山天皇から現称の護浄院の号を賜った。

本尊三宝大荒神は、日本最初の清荒神として有名。『雍州府志』に「荒神河原の西にあり。この社、もと、摂州清澄の地にあり。しかる後に、この所に勧請す。故に、清荒神といふ。また三宝荒神と称す。また竈の神といふ。興津彦・興津姫・中御神を祭るところなり。婦人、特にこれを尊祟す。社僧の住む所、常施寺と号す」とある。江戸期は弁財天二十九所参の第五番札所、愛染明王二十六ヶ所廻りの第十六番札所であった。京の七口の一つ「荒神口」の名の由来ともなった。現在は、京洛七福神の福禄寿、洛陽三十三観音霊場の第三番札所として知られる。

清荒神の鳥居

下御霊香水

②下御霊香水(下御霊神社)

中京区寺町丸太町下ル下御霊前町の下御霊社にある。早良親王以下の八所御霊と相殿に霊元天皇を祀る。もと下出雲寺の鎮守社として、承和六年(839)仁明天皇の創建と伝える。その後、社地を転々とするが、天正十七年(1589)豊臣秀吉の命により現在地に移転。京都御所の産土神とされ、特に霊元天皇の厚い崇敬を受けた。香水と称する井戸は、総門を入った左手にある。井筒は氏子の寄進によるもので、「寛政三年(1791)辛亥四月吉日」との銘がある。近くの梨木神社の染井と同様、飲用可能なため、水を汲みに来る人が絶えない。

【革堂(行願寺)

 中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にある天台宗の寺。洛陽三十三所観音霊場の第四番札所、西国三十三所観音の第十九番札所。正しくは(れい)(ゆう)山行願寺。本尊は千手観音で洛陽七所観音の一つ。子を孕んだ母鹿を射止めたことを悔いた行円は、加茂明神から授かった神木で千手観音像を刻み、寛弘元年(1004)一条小川に小堂を創建して安置。行円は、常に鹿の皮をまとって民衆を教化していたので、(かわの)(ひじり)と称され、寺も革堂と呼ばれるようになった。当時は、下京の六角堂と並び、西国観音霊場としての信仰を背景に、修行僧にとっては市中での根拠地、民衆にとっては町堂として機能した。その後移転と焼亡を繰り返し、宝永五年(1708)の大火に類焼したのち現在地に移った。現在の建物は文化年間(180418)の再建。境内には、都七福神巡りの一つ寿老人神堂、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔、幽霊絵馬を所蔵する宝物館がある。

③幽霊絵馬(革堂)

 宝物館にある。絵馬に手鏡が植え込まれており、傍らに若い娘の幽霊を描く。寺伝はいう。文化十三年(1816)のことである。革堂の近くに八左衛門という質屋がいて、商売熱心なため子供の世話ができない。強欲が祟って近くから子守を雇うことができなかったので、近江国からお文という子守娘を雇った。お文は子守がてらによく革堂に出かけたから、いつの間にか子守唄がわりに御詠歌をうたうようになった。しかし質屋の主人は、熱心な法華信者であったから、立腹して子守娘を折檻し、誤って死に至らしめた。あわてた主人は娘の遺骸をひそかに土蔵の中に埋め、親元には娘が男と逃げたと知らせた。驚いた娘の両親は早速八左衛門宅をたずねたが、娘の行方は分からない。娘は死んだものと思って両親が革堂でお通夜をしていると、娘の幽霊が現れて事の次第を語ったので、真相が明らかになった。両親は奉行所へ訴え、八左衛門は捕えられて、娘の遺骸も探し当てたという。この絵馬は、娘の両親がそのお礼に奉納したもので、手鏡は娘が愛用していたものという。絵馬の開帳は、毎年82324日の両日のみ。

加茂大明神塔(中央の五輪塔)

④加茂大明神塔(革堂)

境内の西北隅にある高さ三メートル余りの大きな花崗岩製の五輪石塔をいう。水輪の中央に正方形の穴を穿ち、中に不動明王を安置するという珍しいもの。『都名所図会』に「行円、常に千手大悲陀羅尼を持し、良き材を求め、観音の像を刻まんことを願へり。ある夜の夢に一人の沙門来り、霊木を送らんといひて覚めぬ。翌朝果たして一僧来り告げけるやうは、鴨社の傍らに苔蒸したる槻の樹あり。六斎日ごとに千手の神咒(しんじゅ)(じゅ)する声聞こえぬ。むかし鴨太神この樹下に天降りたまふとぞ。すなわち行円これを尋ね求め、神官に乞ひうけ、菩薩の像を刻み、行願寺を営みて安置す。これ当寺の本尊なり」とある。行円は、加茂明神の夢告で加茂社の槻の木を得て本尊を刻んだことから、その報恩のため加茂神を勧請、この塔を建てたという。ただし、この塔は鎌倉時代の作である。火輪(笠石)軒裏の一重垂木型の作り出しのあるのが珍しい。忌明塔であるともいう。

⑤菊野大明神(法雲寺)

 中京区河原町通二条上ル清水町の法雲寺境内にある小祠。かつて三条東洞院にあった曇華院境内から移されたという。『京都坊目誌』に「境内に菊野尊天と号し、元三条東洞院東北の角にありし小祠を之に移す。俗に縁切神と呼ぶ」とある。寺伝などによると、ご神体の由来には二説ある。一つは、婚礼の行列がこの石の傍を通ると必ず夫婦別れしてしまうというもの。もう一つは昔、深草少将が山科の小野小町のもとへ百夜かよった際、腰をかけて休んだと伝わり、思いを遂げずに没した少将の怨霊が憑いて、男女の縁を切ると伝わる。現在では、良縁を結び悪運を断つご利益があるといい、小祠内には多くの絵馬が奉納されている。


菊野大明神が鎮座するお堂

釈迦三尊石仏

⑥釈迦三尊石仏(善導寺)

 中京区二条通木屋町東入東生洲町にある善導寺本堂の左手に鎮座している。石仏は、高さ1メートル足らずの扁平な自然石でできており、中央に釈迦如来、両脇に弥勒菩薩()五髻文殊菩薩を半肉彫りで配した珍しいもの。やさしくしふっくらとした釈迦如来は、その姿や衣文からみて、嵯峨清涼寺にある三国伝来の釈迦如来像(国宝)を模したものといわれる。両端に弘安元年(1278)の銘がある。境内には、火袋に茶碗・火鉢・茶釜・五徳などを刻んだ善導寺型灯籠という珍しい石灯籠がある。

⑦三条大橋

室町時代前期には簡素な橋が架けられていたようだが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)豊臣秀吉の命により、増田右衛門尉長盛の大改造による。『都名所図会』に「(三条大橋は)東国より平安城に至る(こう)(こう)なり。貴賤の行人つねに多くして、皇州(みやこ)の繁花はこの橋上に見えたり。欄干には(から)(かね)の擬宝珠十八本ありて、ことごとく銘を刻む。その銘に曰く、洛陽三条の橋、後代に到りて往還人を化度(けど)す。盤石の礎、地に入ること五尋、切り石の柱六十三本、けだし日域において石柱橋の濫觴なり。天正十八年庚寅正月日、豊臣これを始む。御代奉増田(ました)右衛門尉(うえもんのじょう)長盛これを造る()」とある。三条大橋は、鴨川の氾濫で度々流失したが、幕府直轄の公儀橋として、その都度修復された。現在の橋は昭和二十五年の改造によるもので、長さ74メートル、幅15.5メートル。江戸期には十八本あった銘入りの擬宝珠も現在では十一本を数えるのみ(南側欄干のうち川端通から二本目の擬宝珠は昭和二十五年の修復)

なお、大橋西詰北側は高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造に使用された石柱が残る。

() 原文は次の通り。

洛陽三条 之橋至後 代化度往 還人盤石 之礎入地 五尋功石 之柱六十 三本蓋於 日域石柱 橋濫觴乎 天正十八年庚寅正月日

豊臣初之 御代奉 増田右衛門尉長盛造之 


三条大橋(下流の川端通から)


三条大橋の擬宝珠

豊臣秀次墓

⑧関白豊臣秀次墓(瑞泉寺)

瑞泉寺は、中京区木屋町通三条下ル東入石屋町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。山号は慈舟山。本尊阿弥陀如来。慶長十六年(1611)角倉了以が豊臣秀次の菩提を弔うため創建。この地は文禄四年(1595) 、豊臣秀吉の命により秀次の子女と妻妾三十数人が処刑され、秀次の首とともに埋められたところ。秀次悪逆塚または畜生塚と呼ばれたが、荒廃。了以が方広寺再建の用材を運搬するため高瀬川を開削した際に塚を再建、方広寺の残木などで当寺を建立。寺名は、秀次の法号「瑞泉院殿高厳一峰道意」による。本堂には本尊のほか、角倉了以・素庵の木像を安置)。『京都坊目誌』に、「豊臣秀次墓は瑞泉寺堂前にあり。六角の石塔。台石二層。総高九尺六寸。子女五人を合葬す。世に畜生塚と云ひ。又悪逆塚とも呼ぶ。文禄四年八月二日、石田三成の讒に依り、紀州高野山に自害す。年三十一。慶長十六年墓標を樹つ。秀次法名瑞泉院殿高厳一峯大禅定門と云ふ。南傍に殉死拾士の墓あり。石塔高六尺三寸。妻妾三十四人の墓は、豊臣秀次の墓の北傍にあり。石塔高七尺三寸」とある。

⑨引導地蔵(瑞泉寺)

 境内地蔵堂に安置されている木造の地蔵は、極楽浄土へ死者を導く引導地蔵尊として有名。寺伝では、秀次一族が三条河原で処刑される際、四条大雲院の貞安上人が処刑場に地蔵尊を運び込んで、次々と打たれる子女たちに引導を授けたと伝わる。


引導地蔵堂

弁慶石(石柱の奥)

⑪弁慶石

中京区三条通麩屋町東入弁慶石町にある青みを帯びた立石をいう。『山州名跡志』に「三条通京極の西に在り。古へ此の所に律寺有り。古の京極は今の御幸町なり。仍て其の所、今の京極の西、御幸町三條上ル所東方也。其の所地、依て寺を京極寺と号す。弁慶石此の寺に在り。和漢合運に曰く。享徳三年奥州の弁慶石、京極律寺に入洛す云々、伝へ云ふ。此の石、弁慶愛せし石也。弁慶が死後、奥州高館の辺にあり。声を発め鳴動し、三條京極にゆかんといふ。然して其の在所熱病をなすこと(はなはだ)し。土人恐怖(おそれ)を為して此の所に送り来ると。案するに高館と号する舞双紙に、弁慶末後に云く、幼生にしては三條京極に住と。云々此の石の所に来たらんと云ふは、其の往跡を慕ふか。由縁詳しからず。彼の寺、後世に他に移れり。石尚旧地に残れり。故に町に(なつくる)也。石、今、誓願寺方丈の庭に移す」とある。『京羽二重』には「七条の西水薬師の内。此石いにしへはくらま口にありしが、ある年の大洪水にながれて三条御幸町弁慶石の町と云に有し。其後此所へ引取しと也」とある(同旨『名所都鳥など』)。いずれにしても江戸後期には誓願寺の方丈の庭にあったようで、明治二十五年弁慶石町の住民が同寺に乞うて弁慶石を旧地に保存した。

⑩地獄地蔵(矢田寺)

矢田寺は、中京区寺町通三条上ル天性寺前町にある西山浄土宗・金剛山矢田寺の俗称。寺伝によると、平安時代の初め、大和国矢田山金剛寺の別院として、五条坊門に創建され、以後、寺地を転々とし、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命により現在地に移転、真言宗から現宗に改めた。本堂に安置する本尊の地蔵菩薩は高さ約2メートルの立像で、地獄地蔵、生身地蔵、代受苦地蔵の異名を持つ。開山の満慶が閻魔大王の招待で地獄に赴いた際、地獄に落ちた人々を救済していた地蔵の姿を彫らせたものと伝える。また満慶は、閻魔大王から常に米が入っている桝を与えられたといい、満米上人ともいう。

『山州名跡志』に「満米上人と号するは戒行無変の故。地府の主琰羅王の招請をえて至て戒師となれり。其時諸の地獄を度見し、(したしく)地蔵菩薩を拝し。罪人の為に難行をなし玉へるを見、世に帰て其の尊容を造立せり。和州矢田寺及び当寺の本尊是なり。其の帰れるに至て、王一の漆匧を贈れり。帰て之を開くに白米有り。取るに随つて又元の如し。師の一生更に(つきること)無し。故に世に感敬して之を号なり。元享釈書に出ず」とある(同旨『扶桑京華志』)。江戸期には、京師六地蔵の一にも数えられた。

当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として名高い。現在も八月十六日の精霊送りに鐘を撞く。

矢田寺本堂

【本能寺】

■江戸期の本能寺

都名所図会に「京極通り押小路の南にあり。法華宗にて勝劣派なり。古は妙顕寺の塔頭たりしが、日像上人より四世日斉上人、勝劣の一派を興隆す。開基は日隆上人。初めの地は六角の南、油小路の東にあり。今、本能寺町といふ。方丈の門は聚楽城よりここに移す。彫り物花美なり。左甚五郎の作とぞ。三十番神の社は、もと愛宕山権現の古社なり。瓦葺きにして他に類なし。織田信長公の塔本堂の東にあり。天正十年六月二日、当寺旧地において明智光秀がために自殺す。委しくは信長記に見えたり。題目曼荼羅、宗祖日蓮上人の筆なり。表具は紺地の緞子に、唐草の地紋あり。これを世に本能寺切れといふ」とある。

■本能寺の歴史

寺伝では、宗祖日蓮聖人の滅後、開基日隆聖人が応永二十二年(1415)布教の根本道場として創建。寺地は四条油小路にあったが、天正十年(1582)本能寺の変により焼失、豊臣秀吉の命により現在地に移転。織田信長の第三子信孝の願により、信長公廟所をまつる。

臥牛石

⑫臥牛石

 加藤清正の寄進と伝える。江戸期には、臥牛石と称される名石は、慈照寺(『都名所図会』)、勧修寺(『拾遺都名所図会』)、大僊院(大徳寺塔頭『都林泉名勝図会』)、大仙院(大徳寺塔頭『都林泉名勝図会』)にあった。他はいざ知らず、本能寺の臥牛石はまさに臥牛そのものだ。

⑬信長公廟(本能寺)

信長の三男信孝は、本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集。本能寺を信長の墓所と定め、信長所持の太刀も納めた。

信長の墓所は、玉鳳院(妙心寺塔頭)、総見院(大徳寺塔頭)、阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)、大雲院(円山公園南)にもある。

 


信長公廟

火伏せの大銀杏

⑭火伏せの大銀杏(本能寺)

 幹回り約5メートル、高さ約30メートルの古木。信長公廟の右手にある。本能寺の変後、現在地に移植されたものと伝わる。天明の大火(1788)で市中が猛火に襲われたとき、この銀杏から水が噴き出し、樹下に身を寄せていた人々を救ったと伝える。また、蛤御門の変(1864)のとき、近くにあった長州藩邸が幕府軍の攻撃で炎上した際、この銀杏から水が噴き出し、塔頭龍雲院を守ったという。平成163月、京都市指定保存樹に指定。

⑮捨てられた神輿(白山神社)

白山神社は、中京区麩屋町通押小路下ル上白山町にある。祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・菊理比売。『拾遺都名所図会』に「白山社(はくさんのやしろ)は白山通押小路の南にあり。祭神加賀国白山権現也。むかし治承の頃(117781)白山の大衆、内裏に強訴の事ありて思ひの事ならざりしかば神輿三基を振て此所に捨置たり。叡山の例に(なろ)ふて、これを神輿振(みこしふり)といふ。(すなわち)勅ありて勧請しけるなり」とある。『山州名跡志』は「案ずるに上古には叡山より禁裏に訴あるにその旨達しがたきには、山王の神輿を挙来(かききた)り捨置ことあり。是を神輿振(みこしぶり)と云ふ。又捨山王とも。其ある所の土人、神慮を恐て祭り奉る。件の社、(すなわち)此の義ならんか」と記す。現在、歯痛平癒の効験があるとされ、参拝者には神箸が授けられる。

白山神社

親鸞終焉の地石碑

⑯親鸞(見真大師)終焉の地

親鸞終焉の地(中京区柳馬場通御池上ル虎石町御池中学校前)には、「見真大師遷化之旧跡」と記した石碑が立つ。案内板に「浄土真宗の開祖親鸞聖人(見真大師)は弘長二年(1262)この地にあった善法院で九十歳で入滅。いつしか親鸞ヶ原と呼ばれるようになった当地に門徒が法泉寺を建立。その後柳池小学校拡張(現御池中学校)に伴い法泉寺は移転。そのおり門前にあったこの石碑を残し、聖人の旧跡を今に伝える」とある。案内板には続けて「当地が虎石町と名づけられたのは、伏せた虎のような庭石を聖人が虎石と呼んだことに由来。聖人入滅時に虎石は涙を流したと伝える。虎石は現在東大谷に安置」とある。

虎石の由来を述べた地誌は多いが、『拾遺都名所図会』は「法泉井(法泉寺にあったとされる井)は、当寺の庭中にあり。往昔、親鸞聖人止住の時、此井を掘しむるに水底に石あり。これを引揚るに形、虎の伏すに似たり。故に聖人銘して虎石となづく」という。その後、虎石は、太閤秀吉に引き取られて聚楽第に据え付けられたが、のち伏見城に転じ、最後は東大谷廟に移されたという(『京雀』、『出来斎京土産』、『都名所図会』など)

一方親鸞の終焉地については、『京雀』、『出来斎京土産』、『都名所図会』などは虎石町とするが、異説もあり『京都坊目誌』は、「安政四年本派本願寺広如、旧地を探究し、坊舎を建つ。今葛野郡西院村字山ノ内小字御堂田、角之坊是也。虎石町を以て終焉の地とするは非なり」という。

⑰御池の虫八幡(御所八幡宮)

御所八幡宮は、中京区高倉通御池亀甲屋町にある。祭神は応神天皇・神功皇后・比売(ひめの)(かみ)。もと同区御所八幡町にあったが、戦時中の強制疎開で現在地に移転。『雍州府志』に「御所の八幡は二条の南、高倉の東にあり。古へ、この処、等持院尊氏公の第宅の地なり。康永三年、尊氏公、卜部兼豊をして家内に八幡宮を勧請せしむ。かつて建武年中、尊氏、軍を新田義貞に挑む。尊氏、この神に祈る。時に、霊鳩飛翔の異あり。ここにおいて、義貞敗死すといふ。その後、寺となり、等持寺と号す。十刹の第一位に()す。直に八幡宮をもつて鎮守とす。今、寺絶ゆ。およそ、倭俗、高貴の第宅を御所といふ。故に、今に到りて、御所の八幡と称す」とある。古来、安産・幼児の守り神として信仰を集め、左京区の三宅八幡社と並んで「虫八幡」と呼ばれる。

御所八幡宮

神明地蔵堂

⑱神明地蔵(高松神明神社)

高松神明神社は、中京区釜座通御池下ルにある。祭神は天照大神・天児屋根命・誉田別命。神明地蔵は、本殿の左手の小さな地蔵堂に安置されている。この地はかつて醍醐天皇の皇子左大臣源高明の高松殿(鳥居左手に「高松殿跡」と記した石標がある)があり、当社はその鎮守社であった。江戸期は、真言宗東寺に属していた神明寺宝性院として社僧が守護。社伝によると寛政六年(1794)、社僧が紀州九度山の真田庵に安置されていた二体の地蔵尊のうち一体を拝領して持ち帰り、地蔵堂を建てて安置。知将である真田幸村の念持仏だったので、「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰を集めた。明治初年の神仏分離令により宝性院は廃寺となったが、地蔵は辛くも生き残る。この地蔵は石造りの半跏像で、形は小さいが、ふくよかな容姿だ。神社に地蔵が祀られているのが珍しい。地蔵堂の台石をさすって子供の頭をなでると、知恵を授かるといい、今も子供づれの参詣者が跡を絶たない。

⑲こぬか薬師(薬師院)

こぬか薬師は、中京区釜座通夷川下ル大黒町にある黄檗宗・薬師院威徳堂の俗称。医徳山と号す。『都名所図会』に「不来乎(こぬか)薬師は釜の座二条上る西側にあり。本尊は比叡山伝教大師一刀三礼七尊彫刻したまふ日本七仏の一体なり。往昔(そのかみ)美濃国横倉に一院を設け安置し奉る。その頃尾張国山田郡に、何某(なにがし)()(まの)(じょう)(はる)(なが)とて武士(もののふ)あり。明け暮れ尊敬し奉りしに、承久三年夏五月、京・鎌倉の戦ひに所々(しょしょ)高名ありしが、(くい)瀬川(せがわ)の戦ひに深手を負ひ、すでに最期に及ぶとき、この薬師一人の僧と化して草をもみあたへたまふ。明長、これを服すればたちどころに疵平癒し、本国に帰りしと沙石集に見えたり。また寛喜二年(1230)夏六月より、寒気はげしく極寒のごとくなれば、疫癘(えきれい)流行し、死するもの世に多し。しかるにこの薬師、院主の夢に告げて宣はく、一切の衆生わが前に来らば諸病ことごとく除くべきに、こぬかこぬかとありしかば、感涙袖に余りて世にこれを知らしむるに、貴賤群集し、参詣の輩疫病たちまち平癒す。後に織田信長岐阜在住のとき、斎藤山城守この薬師を今のところに移すとなり。それより都鄙の貴賤数多(あまた)信仰し、霊験あること委しく記しがたし」とある。

こぬか薬師の由来には別説もある。『京町鑑』には「元此町に鹿子(かのこ)をゆふ女多く住て日暮ごとに此薬師へ参詣せしゆへに鹿子薬師といひならはせしをいいあやまりてこぬかやくしとよぶとぞ」とある。江戸期には、名薬師(『京羽二重』、『都すずめ案内者』)、薬師十二所(まいり)(『都すずめ案内者』)、弘法大師二十一ヶ所(まいり)の第十番札所 (『都すずめ案内者』)として民衆の信仰を集めた。

こぬか薬師を安置する薬師院本堂

【神泉苑】

中京区御池通神泉苑東入門前町にある東寺真言宗の寺。本尊聖観音菩薩。

■江戸期の神泉苑

弘法大師二十一ヶ所参の第十四番札所、弁財天二十九ヶ所参の第二十五番札所として賑わった(『京羽二重』、『都すずめ案内者』など)。また、法成就池は名池として名高く(『京羽二重』)、水鳥の名所でもあった(『都花月名所』)

■神泉苑の歴史

平安京造営に際して、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑池で、常に清泉が湧きだすことから神泉苑と名づけられた。その境域は、二条・三条大路間の南北四町、大宮・壬生大路間の東西二町の広大なもので、苑内には、大池と中島のほか、正殿の乾臨閣や釣殿、滝殿などがあり、桓武天皇を初め平城・嵯峨・淳和など歴代の天皇が頻繁に行幸遊宴した。天長元年(824)春の日旱(ひでり)に空海が祈雨の法を修して以来、祈雨の霊場となった。また貞観五年(863)には、初めて御霊会が行われた。中世以後は荒廃し、慶長七年(1602)に始まる二条城造営で苑域の大半を失った。同十二年(1607)筑紫の僧快雅が再興して東寺真言宗の寺となる。現在境内一円は国の史跡で、空海ゆかりの善女龍王社もある。五月一日から四日までの神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑大念仏狂言(京都市登録無形民俗文化財)が催される。

善女竜王社

⑳空海と守敏の請雨争い(神泉苑)

多くの地誌が競って空海と守敏の請雨争いに言及しているが、次の『出来斎京土産』の記事が分かりやすい。

(その)(かみ)淳和天皇の御宇天長元年に天下大ひでりす。春三月に空海に仰せて神泉苑にをひて(あま)(ごひ)せしめらる。守敏奏聞せられけるは、我は空海より年も(たけ)て出家も久しきに願わくば我におほせ付けられるべし。申うけて七日祈りしかば、わずかに都の内ばかり雨ふりけり。又空海に祈らせらるるに、七日とも雨ふらず。空海(じょう)に入て見給ふに、守敏あらゆる龍王を封じこめて、雨をふらせざる故也。されども無熱池の善女龍王は大ぼさつの化身なれば、守敏これを封ずることかなわず。空海これを勧請して神泉苑の池にうつし給ふに、天下あまねく雨ふりたり。

(21)名剣鵜丸(神泉苑)

 今となってはその真偽は定かではないが、法成就池から現れた名剣鵜丸に関する伝承がある。『京都坊目誌』に「保元物語に云ふ。崇徳院御謀反の時、為義を御たのみ有て、子息を六人召具して、院参したりしかは。御感のあまりに、近江国伊庭の庄、美濃国青柳の庄を賜ひ、判官代になし、上北面になし、鵜丸という御剣を給へり。此剣の事は白河院神泉苑に御幸なりて、御遊のついでに、鵜をつかわせて御覧しけるに、殊に御逸物と聞えし鵜か、二三尺なるものをかつき上て、おとしおとし度々しければ、人々あやしみをなしけるに、四五度に終にくふてあかりたるを見れば、長覆輪の太刀なり。諸人奇異の思ひをなし、上皇もふしぎに思召。定めて異剣なるべし。是天下の珍宝たるべしとて、鵜丸と付けられて御秘蔵有けり。鳥羽院伝へさせ給ひけるを故院又新院へ参らせられたりしを今、為義ら給ひける」とある(同旨『都名所図会』)

放成就池(部分)

五位鷺が棲むという法成就池の中島

(22)五位鷺の由来(神泉苑)

善女龍王社の北にある中島には五位鷺が棲むという。『山城名所寺社物語』は『源平盛衰記』を受けて「延喜(えんぎの)御門(みかど)(醍醐天皇)池のほとりに遊覧あり。時にさぎ一羽右の方に見ゆればとらへ来るべしとあれば、六位やがてとらへじとせしが此さぎ逃ぐる時、綸言成るぞ、かへれと詞をかけるに此鳥聞入れしか。もとのところへ立帰る時に御門、朕が命に随ふやさしやとて、みづから鳥の羽に諸鳥の王と書て五位を給わりけり」と記す。この話から謡曲「鷺」が作られた。

(23)(りょう)(とんの)辻子(ずし)

 中京区三条通室町西入衣棚町の中ほどから南に下り、六角通へ抜ける小路。安土桃山期の茶人広野了頓がここに邸宅(茶亭)を構え、邸内の南北通り抜けを許したため成立。『雍州府志』に「三條の南室町と新町之間也。相伝ふ。広野了頓、祖、元足利家の従臣にして義晴公義輝公の時に至りて采地少しばかりあり。末裔に至りて、民間に流落し、この所に住す。剃髪して了頓と号す。はなはだ茶を嗜む。故に茶亭を構へ、常に釜を炉に置く。人来り訪ふときは、菓を供し、茶を点じて、これに逢ふ。豊臣秀吉公、播州姫路城にありし時、入洛の日、必ず新町三條の南、伊藤某の宅に寓せらる。伊藤と了頓と、その居、相近し。秀吉公、あらかじめ了頓に告げたまはず、一時、俄然として了頓が宅に入りたまふ。ここにおいて、履を逆さまにして出でてこれを迎へ、茶亭に請ず。時に、釜湯、沸き騰る。すなはち茶を点じて、これを献ず。秀吉公もまた、茶を嗜む。故に、大いに了頓が志を感じ、すなわち家領を賜ふ。その末孫、今に到りて然り。故にこの町、了頓辻子と号す」とある。

 また、安土桃山期の公卿であった山科(とき)(つね)の日記『言経卿記』にも、文禄三年(1594)五月十一日に徳川家康が了頓邸を訪れて、茶の湯を楽しんだとある。了頓は江戸期に、徳川幕府から知行四百石を受けた。明治維新まで六角通に面して表門があり、将軍御成門と呼ばれた。

了頓辻子の石碑と案内版

【六角堂】

 中京区六角通東洞院西入堂ノ前町にある天台宗の単立寺院。西国三十三所観音の第十八番札所。正しくは紫雲山頂法寺。本堂が六角宝形造であることから六角堂と呼ばれる。本尊は聖徳太子の持仏と伝える如意輪観音。開基は聖徳太子。

■江戸期の六角堂

上京の革堂と並び、西国観音霊場としての信仰を背景に、下京の町堂として機能した。祇園祭山鉾巡行の順番を決める籤取りも六角堂で行われた。『京童跡追』に「毎年両度の祇園会。山鉾に次第の籤此堂の前にて定むる。七日のは六日の朝、十四日のは十三日の朝、雑職ここに来たりて籤を持出る。山鉾の町人より行司出て、籤を持帰り。翌日神事の刻、次第をみだらず文、雑職に渡す」とある。

■六角堂の歴史

聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めてこの地を訪れて、そこにあった池で水浴したところ、傍らに置いた護持仏が動かなくなった。そこで、ここに堂を建て安置したのが始まりという。その後弘仁十三年(822)嵯峨天皇の勅願所とり、また長徳二年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場になったと伝わる。建仁元年(1201)比叡山から親鸞が当寺に百日間参籠して霊告を受け、後に浄土真宗を開宗する根源となった。本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出したところで、我が国華道発祥の地として有名。現在も池坊華道の拠点となっている。

地摺れの柳

(24)地摺の柳(六角堂)

門をくぐった所にある大きな柳の木。枝が地面を這っているところからその名がある。へそ石と並んで六角堂の名物。良縁を求めて参拝者がおみくじを結ぶ。『西国札所観音霊験記』に「み堂におわす観音さまが慈悲の手を柳の葉に化し給い、快いなよやかさで撫で給う」とある。信仰の由来は嵯峨天皇に始まるとも(『京都伝説散歩』)

(25)へそ石(六角堂)

本堂前右手にある六角形の礎石をいう。古来、京都の中心に当たる石とされてきた。『都名所図会』に「桓武天皇都をここに定めさせたまふとき、官使条路を極むるに、六角堂小路の中に当たれり。皆これを(うれ)へしかども、太子建立の精舎を他所に移さんこといかがと沙汰しければ、にはかに黒雲下りてこの堂おのづから五丈ばかり北の方に退(しりぞ)けり」とある。この石は、その際に取り残された礎石という。江戸期には六角通にあったが、交通に邪魔になるということで、境内に移された。

へそ石

聖徳太子沐浴の古跡

(26)聖徳太子沐浴の古跡(六角堂)

 『都名所図会』に「太子この辺を徘徊し、ここに来り、清水に(くちゆす)がんとて、かの尊像を(かしわ)の樹にかけ置き、浴すみて像を取りたまふにいと重くして離るることなし。その夜に本尊告げて曰く、われ太子のために持せらるること七世、いままたこの地に因縁あり。願わくはここにありて永く衆生を利益せんと宣ふ。しかるに東方より一人の老嫗(ろうく)来つて曰く、この傍らに大木の杉あり。毎朝紫雲覆へり。これこそ霊材なりといへば、太子これを見たまひ、すなはちきらしめ、他木一(ちゅう)も交へず六角の堂を営みたまふ」とある。『京都民俗志』は名井の一つとする。

(27)御手洗水(八坂神社御旅所)

中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町にある井水。『雍州府志』に「およそ、(祇園神)旅所に詣づる者、必ずこの水を汲みて面手を洗い、その後、旅所を拝す」とある。駒札では、もう少し詳しく「此地は往古祇園社御旅所社務藤井助正の屋敷地で庭前に牛頭天王社を建て毎朝この霊水を奉供。永禄十一年織田信長上洛の際、御旅所を移転した後もこの井水の格別なるを聞き、井戸に施錠し鍵は町方に渡し置き毎年祇園会の時のみ、之を開いて諸人へ神水を施行。明治四十五年烏丸通拡張のため、旧地より原形のまま其の東方現地に移す。深さ七尋半、水質清冷にして都下の名水として著名。毎年七月十四日井戸換え二十四日閉じる」とある。


御手洗井のある八坂神社御旅所
御池不思議探訪順路(イメージ)




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