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洛東
銀閣寺とその周辺

知恩寺御影堂


銀閣寺本堂


法然院山門

アクセス
JR京都駅→市バス17号(25分)→百万遍(探訪開始)→熊野若王子社(探訪終点)→市バス南禅寺・永観堂道→JR京都駅

歩行距離等
 歩行距離:約9キロ
所要時間:約5時間

【知恩寺】

 浄土宗四ヶ寺本山の一つで、左京区田中門前町にある。浄土宗寺院の本尊は多くが阿弥陀如来であるが、本寺は釈迦如来。慈覚大師円仁の草創と伝え、もと賀茂社の神宮寺(天台寺院)で相国寺の北にあった。法然が一時期住したあと、弟子の勢観坊源智(平重盛の孫)が師の恩に報いるため、寺号を功徳院知恩寺に改めて念仏道場とした。元弘元年(1331)後醍醐天皇の命により、八世善阿空円が疫病を封じるため百万遍念仏を修行、その功により百万遍の号を賜る。このことから、世に「百万遍念仏根本道場」と称される。百万遍念仏について『莵芸泥赴』は、「念仏をとなへしめて疫病を治せしめんとて珠のわたり三寸ばかりの百八の念珠をつくりて諸人にかして念仏百万遍となへしむ」という。江戸期は寺領三十石余り(『京羽二重』)。四十八願寺の第二十四札所(『京羽二重』、『都すずめ案内者』)として庶民の信仰を集めた。境内には、法然43歳の像を安置した御影堂をはじめ、釈迦如来像を安置した本堂や阿弥陀堂・経蔵・鐘楼・方丈・庫裏などがある。
【銀閣寺】

東山三十六峰の一つ、大文字の送り火で名高い如意が岳(472メートル)の西山麓にある臨済宗相国寺派の寺。正しくは東山慈照寺。本尊釈迦如来。世界文化遺産。前身は文明十四年(1482)、室町幕府第八代将軍足利義政が戦乱で荒廃した浄土寺跡に西芳寺を模して造営した東山山荘。翌十五年に常御所が完成し、後土御門天皇から「東山殿」の名を賜る。その後、西指庵・東求堂・会所・泉殿などが完成。後世銀閣と称される観音堂は長享三年(1489)に上棟したが、その完成を見ずに翌年、義政は死去。義政の遺言により、夢窓疎石を勧請開山とし、相国寺から宝処周財(畠山将監の子、義政の甥)を迎えて禅寺とした。寺号は義政の法名(慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶)による。戦国期には、銀閣・東求堂を除いて堂宇の大半を失ったが、江戸初期の元和元年(1615)以降、宮城丹波守豊盛とその孫豊嗣が庭園を整備し、方丈も再建した。江戸期の銀閣寺は寺領三十四石余り、相国寺の僧が寺を守った。「暉麗なる庭あり。泉水あり」(『京城勝覧』)とされたが、「大切のつてなければ見物ならず」と記されたように非公開の寺院であり、どちらかといえば庶民には無縁の存在であった。

【法然院】

左京区鹿ケ谷御所ノ段町にある浄土宗捨世派の本山。善気山と号し、獅子谷法然院・万無教寺ともいう。本尊阿弥陀如来。この地は、建永元年(1206)法然が弟子の住蓮坊、安楽坊とともに六時礼讃を勤めたと伝える旧跡。その後荒廃したが、延宝八年(1680)知恩院三十八世(ばん)()が念仏道場として再興。学徳の高い二世忍澂(にんちょう)が出て、貴賤の信仰を集めた。『雍州府志』に「万無寺、鹿ケ谷にあり。もと、法然上人の従弟、住蓮坊、この処に住す。上人もまた、しばらくここに栖む。しかれども、中絶やや久し。延宝八年、知恩院万無和尚、これを再興す。堂に、恵心僧都作るところの弥陀の像を安置し、新たに経蔵を造立し、倭摺一切経等を寄附し、寺を万無寺と号し、あるいは法然院と称す」とある。



江戸期の銀閣寺(都林泉名所図会)

銀閣寺とその周辺の不思議

石経

①石経(知恩寺)

石経は阿弥陀経石ともいい、板石に阿弥陀経を陰刻したもの。作例が少ないので珍重される。この石経は正徳四年(1714)、筑前国善導寺にあった石経を模刻したもの。本堂の右手前にある。『都名所図会』に「建久年中(1190)小松内府重盛(平重盛のこと。清盛の長男)、宋朝へ黄金を渡さる。其志を感じて襄陽の龍興寺より石刻の阿弥陀経を賜る(今筑前国善導寺に有)。其形を(うつ)す所也。一心不乱の已下二十一字の増字は、この石経を濫觴とす」とある。

②猫間塚(知恩寺)

 本堂右手前の石経と本堂の間にある小さな塚。緑泥片岩の表面に「猫間塚」と刻まれた小さな石標が立つ。平安時代後期の勧修寺家の祖、猫間中納言清隆の墓という。『雍州府志』に「猫塚、神楽岡の西北の田間にあり。古へ、この辺、田中村に浄蓮寺あり。これ、勧修寺家代々墳墓の地なり。猫塚、ここをさること遠からず。疑ふらくはこれ、勧修寺家の祖、猫間中納言清隆の塚にして、後世誤りて猫塚と称するものか」とある。『京羽二重』でも「猫塚」と称し、「神楽岡の西北田の中にあり。いにしへ此辺田中村に浄蓮寺あり。これ勧修寺家代々の墳墓の地なり。猫塚はさだめてこれ勧修寺家の元祖猫間の中納言清隆卿の塚なるべしやしらず」とある。

猫間塚

鴨明神社

(かも)明神社(みょうじんのやしろ)(知恩寺)

鐘楼の北に隣る小祀。知恩寺が、もと賀茂社の神宮寺であった名残を伝える鎮守社。『京羽二重』に「百万遍知恩寺はもと賀茂の神宮寺たり。いにしへ賀茂の神職の人、法然上人を請して此所に住せしめ、其後、御弟子勢観坊源智、住職となり専ら浄土専念宗の道場とし、後に知恩寺と改るなり。之に依て賀茂大明神の()(たき)の日、賀茂の社司来り相勤なり。これ旧例たり」という(同旨『都名所車』)。

④後二条天皇北白河陵(福塚)

百万遍から今出川通を東へ約400メートル行った北白川追分町にある。江戸期の地誌は「(ふけ)塚」または「福塚」と呼んだが、幕末に後二条天皇(12851308後宇多天皇の第一皇子。延慶元年、23歳で崩御)の陵とされた。『雍州府志』に「神楽岡の西北、知恩寺の東にあり。案ずるに、勧修寺家の一代、五条大納言国綱卿(平清盛の女婿。財力により「大福長者」と呼ばれた)、家甚だ富めり。かつて五条内裏を造る。又、治承四年、平相国清盛公の勧めによりて、都を摂津国福原に遷したまふ。時に、国綱をして里内裏を造らしむ。しかるときは、この塚は国綱卿の墳か。もと富有の人なり。故に福塚と称するものか」とある。『山州名跡志』には、「陵の巡り(なかくぼ)にしてつねに水あり。よつて泓塚といふ。後(うず)んで平らかなり。これより泓を改て福塚といへり。むかしより、この塚には霊神ありとて恐れをなす。三十年前、近隣吉田村に住むものあり。もとはある武家の(さむらい)、浪人となり殺生を好みて、性質はなはだ猛勇なり。毎歳この塚のうへに葫萎(ひる)生へて、これを好むものあれどおそれて采ることを得ず。かの者、われ采るべしとて塚のうへに登るに、小蛇あつて首を延べて白眼(にら)む勢ひあり。強気(ごうき)覚えずして、戦慄(みのけよだつ)て家に帰り、惆悵(しゅうちょう)してたちまち死すといふ」とある。

後二条天皇陵

二体石仏

⑤二体石仏(北白川石仏)

 左京区北白川西町の路傍にある。白川石(花崗岩)の厚肉彫の二体の大日如来座像をいう。いずれも高さ約1.5メートル。蓮華座以下は地中に埋没する。『雍州府志』に「土人のいわゆる二体仏の石地蔵、はじめは福塚に有りしか」とある。『拾遺都名所図会』は「(後二条天皇)陵の東、白河道の左傍らにあり。二躰共坐像四尺計。(はなはだ)古作にして希代の大仏也。合運図云。宝徳三年(1451)三月、北白川の仏像動くといふは此の像ならんか」という。鎌倉中期頃の作。山中越の街道筋に安置され、庶民の信仰を集めた。

⑥北白川の道標

 二体石仏の覆屋の軒下にある。白川石で高さ約2メートル、幅30センチ。嘉永二年(1849)の銘がある。京都の道標の最高傑作の一つといわれ、史跡にも指定されている。江戸後期の制作とあって、次のように多くの地名と距離を記す。願主は某となっていてるのに、石工権左衛門と名が記されているのが面白い。

(南)南 左三条大橋二十五丁祇園清水 知恩院一里半 東西本願寺

(西)すく 比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永二年己酉仲夏吉辰 願主某 石工権左衛門

(北)北 右北野天満宮三十五丁平野社 上下加茂 今宮 金閣寺

(東)吉田社三丁 真如堂五丁 銀閣寺 黒谷六丁

北白川の道標

大日石仏

⑦大日石仏(子安観音)

北白川石仏の北東、今出川通を隔てたところにある。高さ約2メートル。子安観世音と記した石標が立つ。『山州名跡志』に「後二条院陵の東、白河道左の傍ら巽に向て在り。伝え云ふ。此の像自ら動く事あり。秀吉公、是を聞玉ひて稀有の者なりとて、聚楽城の庭に移し玉へり。此に於て此の像、夜々(よなよな)声を発して白河に返せと動揺す。(これ)に因て本土に移す」とある。鎌倉中期頃の作。二体石仏と同様、山中越の街道筋に安置され、庶民の信仰を集めた。

⑧銀閣寺垣(銀閣寺)

総門から中門までの約50メートルの参道両側には、背の高い椿や樫の生垣が続き、あたかも現世と浄土の世界の分け目のような雰囲気が漂う。東側の生垣には、内側を見せないように幅約90センチの簡素な竹垣が設えられて、厳粛さと静けさを高める効果を醸しだしている。この竹垣は、様式的には「建仁寺垣」を模したものであるが、世に銀閣寺垣と呼ばれる。


銀閣寺垣

八幡社

⑨八幡社(銀閣寺)

唐門を入ったすぐ左手にある小祠。『雍州府志』に「八幡をもつて鎮守とす」とあり、『山州名跡志』には「鎮守の宮、今猶存す。方丈の東南向に有。鳥居南向木柱。祭る所八幡。同所左の傍に小祠有。祭る所天神」とある。『都名所図会』は護国廟という。なお江戸期と異なり、現在の鳥居は石柱である。

⑩向月台・銀沙灘(銀閣寺)

 方丈前の白砂の盛砂をいう。向月台は白砂を円錐状に盛り上げ、頂部を水平にならしているのに対し、銀沙灘は白砂を壇状につくり、表面に直線の縞模様を付けている。池に流入する白砂を処分したものという。設えられた時期は、江戸時代後期。享保二十年(1735)の『築山庭造伝』にはなく、安永九年(1780)の『都名所図会』と寛政十一年(1799)の『都林泉名勝図会』には両方とも見られるが、向月台の高さが増したり、銀沙灘の形状が異なるなどの差異がある。『都名所図会』によると、落月を惜しむために設えられたという。現在、向月台の高さは180センチ、銀沙灘は65センチ。

向月台


銀沙灘

東求堂

⑪東求堂(銀閣寺)

東求堂は方丈の東にある単層・入母屋造・杮葺の建物でもと義政の持仏堂。国宝。名の由来は、「六祖宝檀経」にある「東方の人、念仏して西方に生れんことを求め、西方の人、念仏して何れの国に生れんことを求むや」から採られたという。義政の西方極楽浄土願望の成せるわざである。内部は、北向書院、西向床、四畳の間と阿弥陀三尊を安置した持仏堂の四室から成る。

北向書院は、同仁斎と呼ばれる四畳半の小座敷で、付書院と違棚を備えた初期書院造の遺構として名が高い。ちなみに同仁斎という名であるが、義政が相国寺の禅僧横川景三(おうせんけいさん)(義政の禅師で相国寺や南禅寺の住持を務める)と相談して選んだもので、唐の詩人韓愈の言葉、「聖人は一視同仁」(聖人は人を上下の隔てなく愛する)に由来する。地誌の案内ぶりを見てみよう。

・東求堂とて、義政立られし茶室有。是茶湯座敷のはじめなり(『京城勝覧』)

・今、世上、茶亭の四畳半、これを濫觴とす(『雍州府志』)

・今世に茶の湯の間四畳半敷、是をはじめとす(『京内まわり』)

・茶湯の間は四畳半にして東山殿の物数寄なり。茶亭四畳半の濫觴とぞ。高貴の賓客、常に集会ありて茶の道を楽み、和漢の奇物を(もてあそび)たまふと後世に伝りて時代物といふ(『都名所図会』)

⑫袈裟型手水鉢(銀閣寺)

 方丈と東求堂をつなぐ渡り廊下の傍らにある。花崗岩の手水鉢で江戸期の作。立方体の手水鉢で側面に市松模様のような線刻がある。袈裟型とは、僧侶の袈裟の文様に似ているから。銀閣寺型手水鉢ともいい、意匠の斬新さから茶人千利休をはじめ、その写しが多く造られた。


袈裟型手水鉢

錦鏡池と龍背橋

⑬錦鏡池と龍背橋(銀閣寺)

義政が造った東山殿には、西芳寺十境を模した東山殿十境というものがあった。その十境()とは、超然亭、西指庵、太玄関、東求堂、心空殿、龍背橋、釣秋亭、弄清亭、夜泊船、錦鏡池。このうち、現存しているものは、東求堂、心空殿、龍背橋、弄清亭(明治22年再建)、錦鏡池の五境に止まる。錦境(きんきょう)()は西芳寺の黄金(おうごん)()に、(りゅう)(はい)(きょう)(よう)(げつ)(きょう)にそれぞれ相当する。義政は、錦境池をはじめとする庭園を当時作庭の名手といわれた同朋衆の善阿弥に作らせた。庭園は、西芳寺と同様、上下二段の庭からなる。上段の庭は昭和六年に発掘された庭園で、山裾の東北隅にお茶の水という湧水の石組がある。下段の庭は錦鏡池を主体とする池泉回遊式の庭園。池を東西の二つに分ち、池中に中島をつくり、石橋をかけ、池畔には作庭に協力した守護大名たちの名を付けた大小さまざまの石が立てられ龍背橋は東求堂の南に錦境池を二つに分ける石橋。今はないが、『山州名跡志』には横川景三筆の「龍背橋」という額を掲げる橋亭があったと伝える。特別名勝・特別史跡。

※十境とは天台摩訶止観に由来する言葉で、止観十乗(十種の観法)に対する十境(空間)をいう。建仁寺、相国寺など禅宗寺院には十境があった。

⑭諸候石(銀閣寺)

錦鏡池にある諸大名が献上した数々の名石をいう。『都花月名所』は「諸矦(しょこう)」という。『都名所図会』「細川石、畠山石、山名石は管領職の献上にして其の英名は後世に朽ず」といい、これらのほか「浮石、座禅石は池中にありて淡路嶋山の俤あり。龍蟠石、蹲虎石、臥牛石、伏虎石、點頭石、布袋石」などがあるという。これらのうち現在、駒札で表示されているのは、座禅石、大内石、浮石の三つに止まる。


諸候石のうち大内石

洗月泉

⑮洗月泉(銀閣寺)

龍背橋を渡り少し東に行くと、樹齢500年に及ぶ「千代の槇」という名の大木があり、その傍らにある。苔むした小さな滝の石組から清冽な清水が落ちている。『都花月名所』に名清水とある。

⑯お茶の井(銀閣寺)

駒札に「義政愛用のお茶の井跡。水量も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されている。泉辺の石組は、当時の遺構そのままであり、茶庭の(つくばい)手水鉢前の源流とされる」とある。『都林泉名勝図会』に「(ちゃ)水井(みずのい)、東求堂の北にあり。仏泉の流れ東求堂へ通ふ」と記された名泉。

お茶の井

⑰銀閣(銀閣寺観音堂)

錦鏡池西南隅の池畔に東面して建つ二層の観音堂は、西芳寺の瑠璃殿(舎利殿のこと。現存)を写すものである。上層は潮音閣といい、宝形造、杮葺の屋根に露盤を置き金銅製の鳳凰をのせた禅宗様仏堂で、観音像を安置。下層は心空殿といい、書院造住宅風で須弥壇を設け千体地蔵像を安置。江戸期になり、閣の意匠が金閣に似ていることから、銀閣と呼ばれるようになった。屋根に銀箔が葺かれているかどうかについては、地誌の説は二つに別れてるが、近年の調査により、屋根に銀箔が貼られた痕跡のないことが明確になった。国宝。

○銀箔説

・方丈の南庭、池水の西に閣あり、銀箔をもつてこれを飾る。故に、世に、銀閣と称す。これまた、相公の設くるところにして、その結構、大北山鹿苑寺の金閣を模するものなり。閣の第一重、心空殿と号す。第二重を潮音閣とす。書院に吟月の額あり。この外、処々、その名存す(『雍州府志』)

・院の假庭(つくり)に閣あり。銀箔にて彩しければ、銀閣寺とも云ふなり(『洛陽名所集』)

・方丈の南庭池水の西に閣をつくり銀箔をもつて彩色。北山金閣寺をうつし、其結構いふばかりなし(『山城名所寺社物語』)

○銀箔でないとする説

・是より先、義満公北山の山荘に金閣を造らる。是に准じて此の閣を建らる。然れども未だ箔を(ちりば)めずに義政薨じ玉へり。箔にあらざるといへども、その趣向に依て銀閣と呼ぶ也。然るを、実に銀箔ありと思ふは、非なり(『山州名跡志』)

⑱送り火(大文字山)

・由来 大文字山で毎年八月十六日に行われる盂蘭盆会の行事。松明の火を空に投げて霊を見送る風習に基づくもので、仏教が庶民に浸透する室町期以降に起こったという。文献上の初見は万治元年(1658)の「洛陽名所集」で「そのかみより七月十六日の夜、四方の山に松明にて妙法大の三字。すなわち、大の字は如意峰にとぼせり。青蓮院御門主の御筆なりとぞ聞こえき」とある。

大文字山の「大」は、第一区画80メートル、第二区画160メートル、第三区画120メートル、火床数75。斜面に大谷石を設置、松割木を井桁に積み重ねてその間に松葉を入れる。午後七時、山上の弘法大師堂で般若心経をあげ、仏前の酒で心身を清めて親火を燈明から移し、八時に点火。

『雍州府志』に「毎年七月十六日の晩、この浄土寺村並びに慈照寺村の人、四百有余の松火をもつて、大の字を浄土寺山上に点ず。俗に施火と称す。あるいは、聖霊の送火といふ。これ皆、施餓鬼の義にして、盂蘭盆会の一事なり。伝へいふ、弘法大師の筆画なりと。古へ、浄土寺の本尊、春日神作の弥陀の像、一時、光を放つ。弘法大師これを拝して曰く、見聞の輩、すべからく往生極楽の縁となすべしと。これによりて、この光を(しゅ)して大の字となし、方十丈の筆画を浄土寺山に存す。毎年七月六日、村人各々山上に登り、松を伐る。これを割きて、同じく十六日に至りて、各々の門外に曝す。もし、誤りて、この薪木をもつて他事に用ゆるときは、その一家、あるいは痢を患ひ、疫を苦しむ。思ふに、かくの如きの霊験にあらずんば、すなはち、八百年来、あに不退転に及ばんや」とある。銀閣寺に残る「大文字記」には子義尚の早世を悼んだ義政が、横川景三が揮毫した字形に火床を並べて点火したのが始まりという。現在、行事は大文字山麓の旧浄土寺村の銀閣寺町など五か町が作る大文字保存会が維持。

・ご利益 点火に用いる護摩木に氏名・年齢・性別を書いて志納すると厄除けになるといい、また水や酒の入った丸い盆に送り火を写して飲むと中風にならないとされる。燃え残りを白地に包んで水引で縛り、戸口につるすと厄病除け・盗難除けになるという。

・火床からの景観 銀閣寺の背後にある火床には約40分の行程である。すこし厳しい山行であるが、火床に到着すると、それまでの疲れが消し飛んでしまうことは請け合いだ。そこに展開するのは、愛宕山など京都市内を取り巻く山々、京都御苑、上賀茂・下鴨など翠なす森の数々、碁盤目にどこまでも広がる京都市内。おそらくは京都随一の見事な景観である。

大文字山(正面)

多層石塔

⑲多層石塔(法然院)

 経蔵の前に立つ。二重の宝塔と十三重塔の残欠を組み合わせて造られた珍しいもの。かなり大きいので迫力がある。宝塔の軸部に至徳三年(1386)八月二十二日の銘がある。同様の多層石塔は千本閻魔堂(引接寺)にもある。(本項は『京の石造美術めぐり』(竹村俊則1990)を参考)

 

⑳銅製地蔵菩薩(法然院)

 本堂東の地蔵堂に鎮座。傍らに仏足石がある。『京都坊目誌』に「地蔵堂は境内仏堂なり。西面。本尊地蔵尊の銅像立像六尺を安す。元禄二年第二世僧忍澂之を鋳造す」とある。

銅製地蔵菩薩

(21)善気水(法然院)

 客殿前の庭園にある。洛中名泉の一つ。忍澂が錫杖を突きさしたところ清泉が湧き出たと伝え、茶の湯にも適する名水として名高い。錫杖水ともいう。『都名所図会』に「客殿の前に霊水有。銘を善気水といふ」とある。『都花月名所』は名清水と記す。『京都坊目誌』は「善喜水は、或は気寒暑に増減なく、四時湧出す」という。

(22)阿育(あしょか)(おう)(法然院)

境内墓地に入った正面に立つ。高さ7メートルで花崗岩製。三重の笠石を持つ多層塔である。初重の軸部は背が高く、笠石の軒反りはゆるやかで、二重・三重の笠石は上部ほど小さくなり安定感がある。基礎に「模倣江州阿育王」と刻まれているように、滋賀県蒲生町の石塔寺の三重塔(国宝・奈良)を模したもの。京都市内では一番古くて大きな三重石塔である。ちなみに、阿育王とは、紀元前三世紀頃、インドのマガタ国に君臨したマウリヤ朝第三世で、仏教を保護ことで有名。

付近には経済学者河上肇、東洋史学者内藤湖南、作家谷崎潤一郎、画家福田平八郎、哲学者九鬼周造など、著名人の墓が多い。

(本項は『京の石造美術めぐり』(竹村俊則1990)を参考)

阿育王塔

西田幾太郎歌碑

(23)哲学の道

 銀閣寺橋から若王子橋に至る琵琶湖疏水分線沿いの石畳の散歩道。延長約2キロ。哲学者の西田幾多郎や経済学者の河上肇などがよく散歩したことから、「哲学の道」と名付けられた。昭和56年には、法然院下の疏水べりに鞍馬の自然石を用いた西田幾多郎の歌碑「人は人吾はわれなりとにかくに吾行く道を吾は行くなり」が建立された。また散歩道には、日本画家橋本関雪の夫人米子が大正十年(1921)、報恩感謝のため三百本の桜を植樹。春には、桜の名所として賑わう。

 

(24)松虫・鈴虫供養塔(安楽寺)

 安楽寺は、左京区鹿ケ谷御所ノ段町にある浄土宗の単立寺院。住蓮山と号し、本尊阿弥陀如来。法然の弟子住蓮坊・安楽坊が開いた念仏道場に始まる。両僧の念仏声明が巧みであったため、その人気は宮中に及んだ。こうした中、後鳥羽上皇の熊野御幸の留守中に、女御の松虫・鈴虫が両僧のもとで密かに出家したため、都に帰った上皇は激怒。念仏を禁止し、両僧に死罪を命じるとともに、師の法然も流罪とした(1207年、承元の法難)。江戸中期の延宝九年(1681)、両僧の菩提を弔うため当地に堂宇が建立された。境内右手に住蓮・安楽の五輪石塔二基、境内奥の山中に松虫・鈴虫の五輪小塔二基がある。毎年六月八日に両僧の供養会を催す。

松虫・鈴虫供養塔

住蓮坊・安楽坊供養塔

狛ねずみ(社殿の左右)

(25)狛ねずみ(大豊神社)

左京区鹿ケ谷宮ノ前町にある大豊神社は椿ヶ峰の山麓に鎮座する神社で、祭神は少彦名命・応神天皇・菅原道真。社伝によると、旧円城寺の鎮守として背後の椿ヶ峰の山中にあり椿ヶ峰山天神と称したが、寛仁年間(101721)現在地に移転して大豊神社となった。境内摂社のうち、大国主命を祀る大国社の狛犬が珍しい。というのも、向かって右の狛犬は巻物を銜えた牡のねずみ、同じく左の狛犬は宝珠を持った牝のねずみなのである。須佐之男命の計略で危機一髪となった大国主命をねずみが助けたという故事に基づく(『古事記』)

(26)旧本地堂(熊野若王子社)

熊野若王子社は、左京区鹿ケ谷若王子町に鎮座する。後白河法皇が永暦元年(1160)紀州の熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社。武家の信仰を集め、また花見の名所としても知られた。応仁の乱で荒廃したが、豊臣秀吉により再興された。明治初年の神仏分離によって神社のみが残る。社名は、祭神の天照大神の別号「若一王子」にちなむ。神仏習合時代の旧本地堂が今なお残されているのが珍しい。


旧本地堂
銀閣寺とその周辺探訪順路図(イメージ)

フッターイメージ