○石清水八幡宮
■仁和寺の法師の話 石清水八幡宮といえば、『徒然草』にある有名な説話を思い出す。少し煩わしいが全文を紹介しておこう。「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、年比思ひつること果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へまいるこそ本意なれと思ひて、山までは見ずとぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」とある。この話の要点は勿論、最終段の「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」にあるが、昔はどんな人でも一生に一回は石清水詣でに出かけたことから、こういう説話も成り立ったのだろう。
■江戸期の石清水 社領は七千四十石に及び、寺社領としては山城国で最大であった。また境内には、護国寺、極楽寺、豊蔵坊、滝本坊など多数の坊が林立していた。→巻末絵図38(石清水八幡宮)
■歴史 八幡市八幡高坊の男山にある旧官幣大社。社号は,今なお男山の中腹に湧き出ている霊泉石清水にちなむ。祭神は誉田別命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、比咩大神(宗像三女神)の三神。社伝によれば、貞観元年(859)南都大安寺の僧行教に宇佐八幡神の託宣が下り、同神を男山の峰に勧請したのに始まる。創建当初から神仏習合の影響が強く、明治の神仏分離に至るまで神宮寺の雄徳山護国寺が支配した。「延喜式」神名帳に名はみえないが、伊勢につぐ宗廟として朝廷に崇敬され、天元二年(979)円融天皇を初め歴代天皇や上皇が参詣した。一方、弓矢の神、戦勝の神として武家の崇敬も集め、特に永承元年(1046)源頼信が八幡神に祭文を捧げて以来、源氏の氏神となる。こうして八幡信仰は全国に広がった。当地は交通・軍事上の要衝で、南北朝の争乱の際にはこの地をめぐってたびたび合戦があった。また近くは元治元年(1864)禁門の変で長州軍の拠点となり、多くの民家や寺院が焼亡した。
■見どころ 本殿・外殿は八幡造で重要文化財。毎年九月十五日には放生会岩清水祭が行われる。
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