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洛南
石清水八幡宮とその周辺

        石清水八幡宮本殿


アクセス
JR京都駅→近鉄奈良線(12分)→丹波橋(京阪丹波橋乗換12分)→八幡市→京阪バス樟葉行き(10分)→大芝→松花堂庭園(スタート)→石清水八幡宮本殿(ゴール)→ケーブル男山山上(3分)→京阪八幡市駅
歩行距離等
●歩行距離:約5キロ
●所要時間:3時間
参考情報
八幡市立松花堂庭園は毎週月曜定休。

(いわ)清水(しみず)八幡宮 

■仁和寺の法師の話 石清水八幡宮といえば、『徒然草』にある有名な説話を思い出す。少し煩わしいが全文を紹介しておこう。「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり徒歩(かち)より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、年比(としごろ)思ひつること果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へまいるこそ本意なれと思ひて、山までは見ずとぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」とある。この話の要点は勿論、最終段の「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」にあるが、昔はどんな人でも一生に一回は石清水詣でに出かけたことから、こういう説話も成り立ったのだろう。

■江戸期の石清水 社領は七千四十石に及び、寺社領としては山城国で最大であった。また境内には、護国寺、極楽寺、豊蔵坊、滝本坊など多数の坊が林立していた。→巻末絵図38(石清水八幡宮)

■歴史 八幡市八幡高坊の男山にある旧官幣大社。社号は,今なお男山の中腹に湧き出ている霊泉石清水にちなむ。祭神は誉田(ほんだ)別命(わけのみこと)(応神天皇)(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)(神功皇后)比咩(ひめ)大神(おおみかみ)(宗像三女神)の三神。社伝によれば、貞観元年(859)南都大安寺の僧行教に宇佐八幡神の託宣が下り、同神を男山の峰に勧請したのに始まる。創建当初から神仏習合の影響が強く、明治の神仏分離に至るまで神宮寺の雄徳山護国寺が支配した。「延喜式」神名帳に名はみえないが、伊勢につぐ宗廟として朝廷に崇敬され、天元二年(979)円融天皇を初め歴代天皇や上皇が参詣した。一方、弓矢の神、戦勝の神として武家の崇敬も集め、特に永承元年(1046)源頼信が八幡神に祭文を捧げて以来、源氏の氏神となる。こうして八幡信仰は全国に広がった。当地は交通・軍事上の要衝で、南北朝の争乱の際にはこの地をめぐってたびたび合戦があった。また近くは元治元年(1864)禁門の変で長州軍の拠点となり、多くの民家や寺院が焼亡した。

■見どころ 本殿・外殿は八幡造で重要文化財。毎年九月十五日には放生会岩清水祭が行われる。

不思議


      女郎花塚


      女郎花供養塔

女郎花(おみなえし)(づか)

 女塚ともいう。寛永の三筆の一人で、石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗(18521639)ゆかりの松花堂庭園の一角にある。明治四十年に建てられた女郎花址碑の傍らに石柵に囲まれた五輪塔がある。名を女郎花供養塔という。江戸期の地誌がこぞって取り上げている有名な塔である。かつては「男女の塔」といい、男塚と同じく、男山の南にあった万称寺(廃寺)の前にあったという(雍州府志』)。平安初期、平城天皇の御宇(8068)に実在した小野頼風には、京と男山にそれぞれ妻があった。ある時、頼風が京に長く滞在したので、男山の妻は棄てられたと思い入水して果てた(『雍州府志』など)とか、逆に頼風が男山に長く滞在したので、京の妻が男山を訪ねてきて妻のあるのを知り恨んで入水した (『洛陽名所集』など) という。その後、死んだ女の衣が朽ち果てて土に落ち、そこに儚げな女郎花が咲いたという。これを見た頼風は、自責の念にかられて入水してしまった。人々は、この夫婦の死を哀れんで塚を建てたという。後世、この話に取材した謡曲「女郎花」ができた。

頼風(よりかぜ)(づか)

 男塚ともいう。松花堂庭園から東高野街道を北へ1.5キロほど歩くと創業150年の和菓子屋「じばんそう」があり、その東側の路地奥にある。高さ70センチほどの小振りの五輪石塔。謡曲史跡保存会が設置した駒札に「生い茂る芦は、女塚のある松花堂庭園の方ばかり向いているので、〝片葉のよし〞といわれている。せめて同じ場所にあればと哀れを誘うばかりである」とある。


頼風塚


放生川

(ほう)生川(じょうがわ)

 男山の東山麓を南北に貫流している川。葵祭、奈良の春日祭とともに三大勅祭の一つに数えられた石清水祭(放生会)の主要舞台である。祭日の九月十五日には、生きた魚がこの川に放たれる。その由来について『名所都鳥』は、「毎年年八月十五日放生会とて、魚を放つ。これも神功皇后三韓にて、多くの人を殺させ給ふゆへの(つぐない)とぞ」という。

また、この川は天下に大乱あるときは必ず濁るという。しかし、『莵芸泥赴』に「放生河は濁りてすまず。伊勢御裳濯川はすみ、賀茂御物忌川は波たたず。若し天下に変あればこれに反す。これを三川と云」とあるように、この川の濁り具合からみて『莵芸泥赴』の記事の方が正しいように思えてしまう。

安居(あんごの)(はし)

 放生川に架かる木橋。頓宮から100メートルほど南に下ったところにある。不浄の人は渡ることを禁じられていたという。『名所都鳥』に「八幡山のふもと放生川にかかる橋なり。総じて男山に行に二つの橋有り。この橋は、冬十二月安居の頭人(とうにん)の橋より八幡の社へ詣でけるゆへに、常には不浄の人渡る事なし。これ又八月十五日放生会の時魚を放つ川なり。今ひとつの橋は往来の諸人もわたる。その橋反りたかきゆえに反橋(そりはし)と名づく」とある。反橋は今はない。この橋は、「安居橋の月」として八幡八景の一つでもあった(『都林泉名所図会』)。橋のたもとに、能蓮法師の「石清水清き流れの絶えせねばやどる月さえ隈なかりけり(千載和歌集)」と記した歌碑が立つ。


安居橋


筒井

⑤筒井

八幡宮によると、男山山麓には多数の湧水があり、江戸末期に著された『男山考古録』には十四の井があったという。江戸期の地誌は、八幡の五井・男山五井・五清泉と呼んで紹介している。筒井、藤井、石清水、山井、閼伽井がこれである。これらのうち閼伽井は、男山の西麓の狩尾社の傍らにあったが、昭和40年代の宅地造成により消滅してしまった。現在四つの井が残る。

筒井は一の鳥居をくぐり、頓宮北門の左手前の参道沿いにある。傍らに筒井と彫った石標がある。瓦葺の屋根のある泉殿が設けられている。『男山考古録』に「五水と称する名水の中にて第一の清水なり」とある。両開きの菱格子を通して、石組みで囲まれた約2メートル四方の井戸が見える。中には澄んだ清水が湛えられている。本来、筒井というのは、筒のような丸い井戸を指すのに、この井戸の形は四角で不思議だ。

⑥石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)

 頓宮南門をくぐって頓宮の塀を左手に進み、高良社の前で左折した突き当たりの左方にある。高さ約6メートル、地輪(球形の石材の下の方形の部分)一辺2.4メートルもあり、その大きさに圧倒される。鎌倉時代の作で、我が国最大規模の五輪石塔。その駒札に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたとか、忌明塔ともいい、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓であるなど、刻銘がなく造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々」とある。江戸期の地誌は、この塔は極楽寺(廃寺)(いみ)明塔(あけのとう)で、忌明の時に詣でる所としている(『山州名跡志』、『山城名跡巡行志』)。重要文化財。


石清水八幡宮五輪塔


          藤井

⑦藤井

頓宮北門を出た左手にある摂社高良社の左の狛犬の傍らにある。約170センチ四方の井戸で、割竹の蓋をしてある。傍らに「藤井」と記した石標が立つ。

⑧源頼朝手植の松

 二の鳥居の左手前にある。「く」の字形に歪んで参道に張り出した松をいう。傍らに「源頼朝手植松」と記した石標が立つ。古来、男山には名松が多く、「雄徳山の松」として八幡八景の一つとなっていた(『都林泉名所図会』)


源頼朝手植の松


山井(右手の石囲い)

⑨山井((あい)(づち)稲荷)

二の鳥居を抜けて神幸橋を渡り、左手の石段を降りたところにある摂社三条小鍛冶相槌稲荷社の右手傍らにある。「山ノ井戸」と記した石標が立つ。井筒は1.5メートル四方で、上げ蓋を付けている。中に満々と水を湛えている。『都名所図会』に「小鍛冶宗近、このところに祈り名剣を鍛ひしなり」とある。

⑩旧跡かげきよ

表参道から石清水社方面へ向う分岐点にある。道に囲まれて小さく島状に盛り上がった部分をいう。傍らに「旧跡かげきよ」と記した石標と自然石を彫った手水鉢がある。参道の反対側には摂社の大扉稲荷社がある。『雍州府志』は、これを「景清塔」といい、「八幡山七曲り坂の中間に在り。相伝ふ。悪七兵衛藤原景清、源頼朝卿八幡参詣を窺ひ之を殺さんと欲す。然れどもその事忽ち露れその志を遂げず。土人これを憐み石を建て(しるし)と為す。義士の志を示す。後世呼んで景清塔と称す」という。『山州名跡志』や『都名所図会』にも同じような説明がある。この分岐点から石清水社方向に行くとすぐに景清が駒を返したという小さな駒返りの橋がある。

しかし、当社では、この小古墳状のものは、周囲の岩や土を削り取った結果、本来の山腹面の一部が取り残されたもので、景清にちなむ塚ではないという。かつてここにあった()織津(おりつ)(ひめ)を祀る祓谷社の人形流しに関連して、参詣人がこのあたりにあった清水に己の影を写して心身を祓い清めたことに由来するという。「かげきよ」とは、文字どおり「影清め」、即ち「姿を清める所」という意味で、今に残る手水鉢は、わずかにその名残りを止めているといい、江戸期の地誌とは異なる解釈をしている。


旧跡かげきよ


駒返しの橋


石清水

⑪石清水社と石清水

 「旧跡かげきよ」前の分岐点から右手にしばらく行ったところにある。社の創立時期は石清水八幡宮中、最も古いと伝える。祭神は(てんの)御中主(みなかぬし)神(心願成就の神様)で、泉そのものが神。神前に供える水として古くから用いられてきた(『莵芸泥赴』)。「石清水」は、1.5メートル四方の石組みの井桁に清泉が湛えられている。極彩色の泉殿は元和元年(1618)、後に京都所司代になった板倉重宗が修築したという。『京羽二重』に「男山八幡宮の岩窟から湧出する所の香水なり。諸人これを汲みて諸病を除くとかや云ひ伝へ侍る」とあるように、現在でも水を汲んで自宅に持ち帰る人が後を絶たない。

(ささやき)(ばし)

(ささ)(やきの)(はし)ともいう。石清水社と本殿の中間あたりにある注連縄を張った石橋。幅150センチ、長さ3メートルの小さな石橋であるが、『都名所図会』に「八幡・住吉の二神、(よう)(ごう)ありし所なり。石を()いて橋の形となし注連をはる」とある(同旨、『山州名跡巡行志』)。目立たないが、参道を隔てた向かい側に伊勢神宮の遥拝所がある。


細橋


本殿左手のクスノキ
⑬クスノキ
 境内に樹齢600年から700年の大クスノキが二本ある。一本は本殿の左手、供御所のすぐ北の塀外に、もう一本は清峯殿の左手向かい側にあり、それぞれ注連縄が張られているので、それと分かる。二本とも京都府の指定天然記念物。当社では、男山は北方系植物相と南方系植物相の境界に位置し、南方系の「クスノキ」もよく生育するという。境内には多数のクスノキがあって、最大のクスノキは胴根回り18メートル、樹高30メートル、樹冠40メートルもあるという。『洛陽名所集』に「楠正成、戦勝軍利を祈り楠木千本を八幡山に植けり。あまた枯折しけれど、今に数百樹見えたり。其の内、この一本ことに大茂し、名高かりき」とあり、境内のクスノキは樹齢600700年であることから、楠正成手植えの可能性もあるが、断定はできないという。漢名の楠は中国特産の植物であり、日本には自生しないので、クスノキと呼ぶのが正しいのだそうだ。他にも『京師巡覧集』、『都名所図会』、『山城名所寺社物語』などが楠正成の手植えのクスノキが残っているという。



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